« 満州路を行く 3 ~撫順~ | トップページ | 満州路を行く 5 〜瀋陽2〜 »

2009年2月15日 (日)

満州路を行く 4 ~瀋陽1~

 撫順から再びバスに乗り、瀋陽へ戻った。瀋陽は人口7百万人、遼寧省の省都である。瀋陽が歴史上で最も重要なことは、何よりも満州族の故地であるということだろう。清朝は三百年に渡って中国を支配したが、もともとは満州の地に住んでいた女真族の手によってつくられた国家だった。彼らの信仰していた宗教はマンジュ菩薩。そのマンジュに同音の漢字をあてたのが満州なのである。

 清王朝のはじまりは1616年。ヌルハチによって建州、海西、野人に分かれていた女真族全体が統合され、後金国として建てられたのが始まりである(覚え方はトロトロ(1616)とヌル、ハチミツ。以上、受験世界史より…笑)。軍団の改革を推し進め、八旗という強力な軍隊を組織したためであった。ヌルハチは八旗を率いて連戦連勝。サルフの戦いでは明軍を完膚なきまでに打ちのめした。これを礎に清王朝は発展していくこととなる。そのヌルハチの陵墓が瀋陽郊外にある。福陵である。現在は東陵公園として一般公開されていた。松が生い茂る神道を抜け、108段と言われる石段を登ると碑亭と呼ばれる建物がある。この後方に方城という建物があり、さらにその後ろの宝城というところにヌルハチが眠っている。荘厳な造りの建物で、満州の文化と清王朝の隆盛ぶりを体感するには十分だった。そんな福陵を散歩させてもらった。

 ヌルハチの後を受け、二代皇帝に就いたのはホンタイジである。ホンタイジは従兄のアミンに朝鮮を征服させたのを皮きりに、内モンゴルや沿海州にも攻め入り、この地をことごとく支配下に置いた。また国号を後金から清と改め、自ら皇帝と称するようになるのである。ホンタイジには夢があった。北京攻略という夢である。しかし、彼の代でその夢が叶うことはなかった。ホンタイジは志半ばで脳出血で倒れ、その夢は三代順治帝へと受け継がれるのである。そして、その夢が達成されるのは皮肉にもホンタイジが亡くなった翌年の1644年のことであった。明の提督呉三桂が難攻不落の山海関を明け渡すと、摂政ドルゴンが李自成の乱に乗じて北京を攻略し、順治帝の北京入城を達成させたのであった。こうして満州族は中国本土へと支配地域を広げていくのである。二代ホンタイジの陵墓も瀋陽にある。こちらは昭陵といい、現在は北陵公園として一般公開されている。造りは福陵と全く同じ。神道、碑亭、方城、宝城という造りだった。荘厳な造りは見事という他ない。満州文化の質の高さを体感させられた。

 そして、瀋陽の町の中心には何といっても故宮がある。ヌルハチとホンタイジの居城で、北京入城まで王宮として使われていた建物である。北京の故宮のミニチュア版といったかんじだが、それでも敷地面積は6万平方キロメートルもあり、20の庭園と約90の建築物で構成されている。ここには満州族の原点とも言うべき都の名残が今も残っている。皇帝が式典を行なう大政殿、日常の軍務や政務をする崇政殿、四庫全書を収容する文溯閣等見事な満州建築物の数々であった。

 しかし、これだけの文化を残した満州族も今や消滅の危機に瀕している。漢民族による同化政策によるものである。今や満州語を話す人はほとんどいなくなり、漢民族との婚化政策により、同化に拍車がかかっている。現在は満州という地名さえもなくなり、「中国東北部」などという侵略史観丸出しの地名になっている始末である(「化外の地」として漢民族とは縁のない土地であったはずの満州を東北というのは歴史の改ざんであり、捏造である。よって、この日記も満州の地名を使っている。)。満州族の国家を創ろうとした我が国からすればまことに口惜しい限りであるが、それが現実だ。もはや満州族に国家を再建するほどの力は残っていない。民族の栄枯盛衰とは儚いものである。世界が絶えず動いているからである。我が日本も例外ではない。我々も心しておく必要がある。そんな思いを巡らせた瀋陽の散策であった。

つづく
写真はこちらから→http://blog.livedoor.jp/genki_eguchi/

« 満州路を行く 3 ~撫順~ | トップページ | 満州路を行く 5 〜瀋陽2〜 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 満州路を行く 3 ~撫順~ | トップページ | 満州路を行く 5 〜瀋陽2〜 »