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2009年2月19日 (木)

満州路を行く 5 〜瀋陽2〜

 瀋陽の散策はまだまだ続く。

 次に私は張作霖の邸宅に行った。馬賊の棟梁から一代で身を起こし、日本を出し抜いて瀋陽に独立政権を樹立した張作霖。その張作霖の官邸兼私邸である。故宮にも負けないくらいの豪華な近代建築は圧巻だった。特にローマ様式の三階建ての大青楼の豪華さは特別である。奉天軍閥の首領として権力の絶頂にいた張作霖。その暮らしぶりがよくわかる豪邸であった。しかし、その張作霖も思いも駆けない形で生涯を閉じることとなる。1928年6月4日、京奉線と満鉄線が交差する皇姑屯陸橋付近に何ものかによって爆弾が仕掛けられ、張作霖の乗っていた特別列車が、列車ごと吹き飛ばされる事件が起きるのである。この事件によって張作霖は死亡。満州におけるパワーバランスも急速に変わっていくのである。この事件は一般的には関東軍の河本大作大佐の犯行だとされている。関東軍の援助を受けていながら、張作霖は意に添った行動をせず、強大な軍事力を持つようになったからというのが一般的だ。しかし近年、その見解も見直されるようになった。コミンテルンによる犯行だという説が有力になってきたためである。ロシアの歴史家ドミトリー・ボルゴヌフ氏がソ連軍諜報局の暗殺計画の決定的な資料を見つけたからである。反ソ的な行動を取り続けていた張作霖。さらに鉄道使用料の未払もあることなどから、この説は一定の説得力を持っている。事実が解明されるまでこの事件のコメントは控えたいと思う。張作霖の死後、この建物は後を継いだ反日活動家の息子張学良の所有物となり、抗日運動の拠点となっていった。瀋陽はこうして新たな時代へと突入するのであった。その舞台となった建物を見学させてもらった。

 その後、満州事変勃発の地、柳条湖にも行った。ここには現在、江沢民の主導で建てられた反日の資料館がある。カレンダーを9月18日の日付で開いた形をしている石造りの建物が資料館だ。入館する前からだいたいの内容は想像できたが、想像以上に強烈な反日の資料館であった。確かに当時の関東軍がとった行動は暴走という意外にない。関東軍は日本政府の方針を全く無視し、出先で勝手なことをしてしまった。しかも、陸軍の中央でさえ知らなかったのだから質が悪い。しかし、当時の関東軍の行動をすべて「侵略」と決め付けてしまうのは些か筋違いである。南満州における権益は日露戦争後の講和条約で正当な権利として認められていた。これは当時の中国政府を含む国際社会全体が認めたもので、何の問題もないことである。そんななか、関東軍はソ連と対峙していたし、蒋介石や張学良が反日的な活動をしていて、日本人入植者の生命が常に危険に晒されていた。しかし、当時の幣原喜重郎外相の方針は徹底した国際協調外交であった。それは「軟弱外交」と揶揄されたほどで、日本人居留民の生命が危険に陥っても話し合いで解決しようとしたほどであった。そんな政府を見て関東軍の将校たちは「日本政府は頼りにならない」と思い、行動したのである。すべてを肯定するわけではないが、行動に至った背景を知ることも重要だ。しかも、満州という土地はもともと漢民族の土地ではない。関東軍が満州を制圧したまま居座り満州族を支配したのなら話は別だが、溥儀を迎えて満州国を作ったのである。欧米の植民地政策とは訳が違うということは一目瞭然であろう。日本人として我々はそういう歴史を知っておかなければならない。そんな思いに駆られた柳条湖であった。

 激動の歴史を歩んだ瀋陽。満州の薫りを残しつつも大きく様変わりした古都をたっぷりと散策し、次の目的地、長春へと向かった。

つづく
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2009年2月15日 (日)

満州路を行く 4 ~瀋陽1~

 撫順から再びバスに乗り、瀋陽へ戻った。瀋陽は人口7百万人、遼寧省の省都である。瀋陽が歴史上で最も重要なことは、何よりも満州族の故地であるということだろう。清朝は三百年に渡って中国を支配したが、もともとは満州の地に住んでいた女真族の手によってつくられた国家だった。彼らの信仰していた宗教はマンジュ菩薩。そのマンジュに同音の漢字をあてたのが満州なのである。

 清王朝のはじまりは1616年。ヌルハチによって建州、海西、野人に分かれていた女真族全体が統合され、後金国として建てられたのが始まりである(覚え方はトロトロ(1616)とヌル、ハチミツ。以上、受験世界史より…笑)。軍団の改革を推し進め、八旗という強力な軍隊を組織したためであった。ヌルハチは八旗を率いて連戦連勝。サルフの戦いでは明軍を完膚なきまでに打ちのめした。これを礎に清王朝は発展していくこととなる。そのヌルハチの陵墓が瀋陽郊外にある。福陵である。現在は東陵公園として一般公開されていた。松が生い茂る神道を抜け、108段と言われる石段を登ると碑亭と呼ばれる建物がある。この後方に方城という建物があり、さらにその後ろの宝城というところにヌルハチが眠っている。荘厳な造りの建物で、満州の文化と清王朝の隆盛ぶりを体感するには十分だった。そんな福陵を散歩させてもらった。

 ヌルハチの後を受け、二代皇帝に就いたのはホンタイジである。ホンタイジは従兄のアミンに朝鮮を征服させたのを皮きりに、内モンゴルや沿海州にも攻め入り、この地をことごとく支配下に置いた。また国号を後金から清と改め、自ら皇帝と称するようになるのである。ホンタイジには夢があった。北京攻略という夢である。しかし、彼の代でその夢が叶うことはなかった。ホンタイジは志半ばで脳出血で倒れ、その夢は三代順治帝へと受け継がれるのである。そして、その夢が達成されるのは皮肉にもホンタイジが亡くなった翌年の1644年のことであった。明の提督呉三桂が難攻不落の山海関を明け渡すと、摂政ドルゴンが李自成の乱に乗じて北京を攻略し、順治帝の北京入城を達成させたのであった。こうして満州族は中国本土へと支配地域を広げていくのである。二代ホンタイジの陵墓も瀋陽にある。こちらは昭陵といい、現在は北陵公園として一般公開されている。造りは福陵と全く同じ。神道、碑亭、方城、宝城という造りだった。荘厳な造りは見事という他ない。満州文化の質の高さを体感させられた。

 そして、瀋陽の町の中心には何といっても故宮がある。ヌルハチとホンタイジの居城で、北京入城まで王宮として使われていた建物である。北京の故宮のミニチュア版といったかんじだが、それでも敷地面積は6万平方キロメートルもあり、20の庭園と約90の建築物で構成されている。ここには満州族の原点とも言うべき都の名残が今も残っている。皇帝が式典を行なう大政殿、日常の軍務や政務をする崇政殿、四庫全書を収容する文溯閣等見事な満州建築物の数々であった。

 しかし、これだけの文化を残した満州族も今や消滅の危機に瀕している。漢民族による同化政策によるものである。今や満州語を話す人はほとんどいなくなり、漢民族との婚化政策により、同化に拍車がかかっている。現在は満州という地名さえもなくなり、「中国東北部」などという侵略史観丸出しの地名になっている始末である(「化外の地」として漢民族とは縁のない土地であったはずの満州を東北というのは歴史の改ざんであり、捏造である。よって、この日記も満州の地名を使っている。)。満州族の国家を創ろうとした我が国からすればまことに口惜しい限りであるが、それが現実だ。もはや満州族に国家を再建するほどの力は残っていない。民族の栄枯盛衰とは儚いものである。世界が絶えず動いているからである。我が日本も例外ではない。我々も心しておく必要がある。そんな思いを巡らせた瀋陽の散策であった。

つづく
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2009年2月11日 (水)

満州路を行く 3 ~撫順~

 大連から瀋陽へは鉄道で行くことにした。この路線は昔の南満州鉄道の路線そのものである。歴史を体感するにはもってこいの路線と言える。値段から言えばバスという選択肢もあったが、ここは鉄道で瀋陽まで行くことにした。

 中国の鉄道は座席の硬さで料金が変わる。料金が安い座席は硬座。ビニールの硬いシート張りの座席で、現地の利用者が多いのが特徴である。一方、料金が高いのは軟座である。クッションの効いたシートでできた座席で、日本でいうグリーン車のような座席だ。

 私は迷わず硬座の切符を購入した。料金が安いのはもちろん、今までの海外旅行の経験から硬座の方がエキサイティングだろうと判断したためである。事実そうであった。私が乗り込んで程なくして、車内は日本では考えられないようなめちゃくちゃな状態になった(笑)。椅子という椅子、通路という通路はあっという間に人で埋まり、喧騒に包まれたのである。おばさんが中国語でまくし立てて2人掛けの椅子が3人掛けになったり、指定席だというのに勝手に座っているやつがいて口論になっていたり、通路がいっぱいだというのに売り子が必死にカートを転がしていたり…。暑い、汚い、うるさい。本当にものすごい状態であった(笑)。

 中国の鉄道にはおもしろい特徴がある。列車の連結部分に小さな給湯器が付いていて、お湯だけは無料で支給されているのである。そのため硬座席で移動をしている現地の人たちはみんなカップラーメンを購入してから列車に乗る。そのため列車の中ではカップ麺の独特な臭いと麺をすする音で一杯だった。

 私はこの列車の中で、隣に座っていた満族の大学生たち(男の子1人女の子2人)と仲良くなった。初めは中国語で話しかけられてビックリさせられてしまったが、私がバックパックからペンとメモ帳を取り出して「我是日本人 不能説中文」と書くと、にっこりと笑って応じてくれた。それからは言葉を発しない紙とペンによる奇妙な「会話」をしていったのである。それによると彼らは撫順の大学に通っていて、帰省のために大連に帰っていたということだった。彼らの大学での専攻は石油。将来は石油会社で働きたいということだった。そこで、私が日本の石油会社で働いているということを伝えると、興味津々で質問されまくったのだった。中国石油といえば、中国におけるエリート中のエリートが集う会社だ。彼らの夢の一助になれたらいいなと思い、いろいろなことを語り合った。

 そんな大学生たちに一つのアドバイスをもらった。瀋陽に行くなら、是非とも撫順を訪れるべきだということである。撫順はとてもおもしろい町なので、是非来てほしい、と。なるほど、言われてみれば撫順はおもしろそうな町である。世界一の炭鉱や発電所、昔の戦犯収容所などがある町だ。そんなことを考えれば考える程、私の頭の中は撫順でいっぱいになってしまった。そこで当初の予定を変更して、撫順を訪れることにしたのである。

 列車は午後10時過ぎに瀋陽北駅に到着した。外の気温は-12℃。列車を降りた瞬間、ものすごい寒さで身が固まってしまった。私の格好はと言えば、Tシャツ2枚を着て、その上に野球部時代に使っていた厚手のアンダーシャツ、さらにもう一枚着て、セーター、コートにマフラーに手袋、下は股引を履いてジーンズ、靴下も二枚重ねというフル装備だ。それでも容赦なく寒気が体に吹き抜けてきた。もっともこの後ハルビンで-30℃を経験することになるのだから、これはほんの序章に過ぎなかったが…。それにしてもこの寒さには本当に堪えた。いち早く駅前のマックに駆け込んでしまったほどであった(笑)。考えてみれば、満州はケッペンの気候区分で言えば、Dw(冷帯冬季少雨)。こんな過酷な気候は地球上でシベリアと満州にしかない。如何に厳しいところかということが身を持ってわかった。日本の先人たちはこんな寒いところで充分な防寒着を持たずに開拓をしていたのだから、本当に頭が下がる思いである。

 瀋陽で一泊したあと、早速バスで撫順に向かった。もくもくと工場の煙突から立ち上る煙。撫順は中国有数の工業地帯だ。この町の最大の見所は何といっても世界一の規模を誇る「西露天鉱」という炭鉱である。私は早速バスターミナルでタクシーを拾い、一路炭鉱を目指すことにした。

 タクシーに乗って20分、着いた先は何もない大きな崖の上だった。これは妙なところに連れていかれた、一杯食わされたのかと思いかけた瞬間、想像を絶することが起きた。崖の下の方でミニチュアのおもちゃのようなトラックと豆粒のような人影が見えたのである。その瞬間私は凍り付いてしまった(寒さだけではなく…汗)。なんとこの巨大な崖そのものがすべて炭鉱だったのである。それもそのはず西露天鉱のサイズは東西6.6キロ、南北2キロ、深さも300メートルもあるという。その規模に圧倒された瞬間だった。あまりの大きさに向こう側は全く見ることができない。私は露天掘りの炭鉱は初めてだったので本当にビックリさせられてしまった。

 その後、撫順の戦犯管理所にも行った。終戦後、969人の日本人や溥儀が収容され、中国共産党による「思想教育」が行なわれていた施設である。映画『ラストエンペラー』の舞台にもなったことでも有名だ(特に運動場は最初のシーンで登場した)。中共はここで思想面から教育と改造をし、「認罪学習」をさせた。教育を受けて日本に帰った方々の多くは「中国帰還者連絡会(中帰連)」という団体をつくり、左翼運動家になっていった。中国政府はこれを「成功」と呼んでいる。悲しい話である。収容されていた方々の運命を感じると本当に複雑な思いに駆られないわけにはいかなかった。

 満州国時代からの世界一の炭鉱の町、撫順。堪能した一日だった。

つづく
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