満州路を行く 5 〜瀋陽2〜
瀋陽の散策はまだまだ続く。
次に私は張作霖の邸宅に行った。馬賊の棟梁から一代で身を起こし、日本を出し抜いて瀋陽に独立政権を樹立した張作霖。その張作霖の官邸兼私邸である。故宮にも負けないくらいの豪華な近代建築は圧巻だった。特にローマ様式の三階建ての大青楼の豪華さは特別である。奉天軍閥の首領として権力の絶頂にいた張作霖。その暮らしぶりがよくわかる豪邸であった。しかし、その張作霖も思いも駆けない形で生涯を閉じることとなる。1928年6月4日、京奉線と満鉄線が交差する皇姑屯陸橋付近に何ものかによって爆弾が仕掛けられ、張作霖の乗っていた特別列車が、列車ごと吹き飛ばされる事件が起きるのである。この事件によって張作霖は死亡。満州におけるパワーバランスも急速に変わっていくのである。この事件は一般的には関東軍の河本大作大佐の犯行だとされている。関東軍の援助を受けていながら、張作霖は意に添った行動をせず、強大な軍事力を持つようになったからというのが一般的だ。しかし近年、その見解も見直されるようになった。コミンテルンによる犯行だという説が有力になってきたためである。ロシアの歴史家ドミトリー・ボルゴヌフ氏がソ連軍諜報局の暗殺計画の決定的な資料を見つけたからである。反ソ的な行動を取り続けていた張作霖。さらに鉄道使用料の未払もあることなどから、この説は一定の説得力を持っている。事実が解明されるまでこの事件のコメントは控えたいと思う。張作霖の死後、この建物は後を継いだ反日活動家の息子張学良の所有物となり、抗日運動の拠点となっていった。瀋陽はこうして新たな時代へと突入するのであった。その舞台となった建物を見学させてもらった。
その後、満州事変勃発の地、柳条湖にも行った。ここには現在、江沢民の主導で建てられた反日の資料館がある。カレンダーを9月18日の日付で開いた形をしている石造りの建物が資料館だ。入館する前からだいたいの内容は想像できたが、想像以上に強烈な反日の資料館であった。確かに当時の関東軍がとった行動は暴走という意外にない。関東軍は日本政府の方針を全く無視し、出先で勝手なことをしてしまった。しかも、陸軍の中央でさえ知らなかったのだから質が悪い。しかし、当時の関東軍の行動をすべて「侵略」と決め付けてしまうのは些か筋違いである。南満州における権益は日露戦争後の講和条約で正当な権利として認められていた。これは当時の中国政府を含む国際社会全体が認めたもので、何の問題もないことである。そんななか、関東軍はソ連と対峙していたし、蒋介石や張学良が反日的な活動をしていて、日本人入植者の生命が常に危険に晒されていた。しかし、当時の幣原喜重郎外相の方針は徹底した国際協調外交であった。それは「軟弱外交」と揶揄されたほどで、日本人居留民の生命が危険に陥っても話し合いで解決しようとしたほどであった。そんな政府を見て関東軍の将校たちは「日本政府は頼りにならない」と思い、行動したのである。すべてを肯定するわけではないが、行動に至った背景を知ることも重要だ。しかも、満州という土地はもともと漢民族の土地ではない。関東軍が満州を制圧したまま居座り満州族を支配したのなら話は別だが、溥儀を迎えて満州国を作ったのである。欧米の植民地政策とは訳が違うということは一目瞭然であろう。日本人として我々はそういう歴史を知っておかなければならない。そんな思いに駆られた柳条湖であった。
激動の歴史を歩んだ瀋陽。満州の薫りを残しつつも大きく様変わりした古都をたっぷりと散策し、次の目的地、長春へと向かった。
つづく
次に私は張作霖の邸宅に行った。馬賊の棟梁から一代で身を起こし、日本を出し抜いて瀋陽に独立政権を樹立した張作霖。その張作霖の官邸兼私邸である。故宮にも負けないくらいの豪華な近代建築は圧巻だった。特にローマ様式の三階建ての大青楼の豪華さは特別である。奉天軍閥の首領として権力の絶頂にいた張作霖。その暮らしぶりがよくわかる豪邸であった。しかし、その張作霖も思いも駆けない形で生涯を閉じることとなる。1928年6月4日、京奉線と満鉄線が交差する皇姑屯陸橋付近に何ものかによって爆弾が仕掛けられ、張作霖の乗っていた特別列車が、列車ごと吹き飛ばされる事件が起きるのである。この事件によって張作霖は死亡。満州におけるパワーバランスも急速に変わっていくのである。この事件は一般的には関東軍の河本大作大佐の犯行だとされている。関東軍の援助を受けていながら、張作霖は意に添った行動をせず、強大な軍事力を持つようになったからというのが一般的だ。しかし近年、その見解も見直されるようになった。コミンテルンによる犯行だという説が有力になってきたためである。ロシアの歴史家ドミトリー・ボルゴヌフ氏がソ連軍諜報局の暗殺計画の決定的な資料を見つけたからである。反ソ的な行動を取り続けていた張作霖。さらに鉄道使用料の未払もあることなどから、この説は一定の説得力を持っている。事実が解明されるまでこの事件のコメントは控えたいと思う。張作霖の死後、この建物は後を継いだ反日活動家の息子張学良の所有物となり、抗日運動の拠点となっていった。瀋陽はこうして新たな時代へと突入するのであった。その舞台となった建物を見学させてもらった。
その後、満州事変勃発の地、柳条湖にも行った。ここには現在、江沢民の主導で建てられた反日の資料館がある。カレンダーを9月18日の日付で開いた形をしている石造りの建物が資料館だ。入館する前からだいたいの内容は想像できたが、想像以上に強烈な反日の資料館であった。確かに当時の関東軍がとった行動は暴走という意外にない。関東軍は日本政府の方針を全く無視し、出先で勝手なことをしてしまった。しかも、陸軍の中央でさえ知らなかったのだから質が悪い。しかし、当時の関東軍の行動をすべて「侵略」と決め付けてしまうのは些か筋違いである。南満州における権益は日露戦争後の講和条約で正当な権利として認められていた。これは当時の中国政府を含む国際社会全体が認めたもので、何の問題もないことである。そんななか、関東軍はソ連と対峙していたし、蒋介石や張学良が反日的な活動をしていて、日本人入植者の生命が常に危険に晒されていた。しかし、当時の幣原喜重郎外相の方針は徹底した国際協調外交であった。それは「軟弱外交」と揶揄されたほどで、日本人居留民の生命が危険に陥っても話し合いで解決しようとしたほどであった。そんな政府を見て関東軍の将校たちは「日本政府は頼りにならない」と思い、行動したのである。すべてを肯定するわけではないが、行動に至った背景を知ることも重要だ。しかも、満州という土地はもともと漢民族の土地ではない。関東軍が満州を制圧したまま居座り満州族を支配したのなら話は別だが、溥儀を迎えて満州国を作ったのである。欧米の植民地政策とは訳が違うということは一目瞭然であろう。日本人として我々はそういう歴史を知っておかなければならない。そんな思いに駆られた柳条湖であった。
激動の歴史を歩んだ瀋陽。満州の薫りを残しつつも大きく様変わりした古都をたっぷりと散策し、次の目的地、長春へと向かった。
つづく
写真はこちらから→http://blog.livedoor.jp/genki_eguchi/

