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2009年1月17日 (土)

満州路を行く 2 〜大連〜

 今年で80回目を迎える社会人野球の祭典・都市対抗。その第1回目の優勝チームは大連市代表の満鉄倶楽部であった。翌年行なわれる第二回大会の優勝チームも同じく大連市代表の大連実業。続く第三回大会は満鉄倶楽部が2度目の優勝に輝いている。こうして大連市の3連覇で産声をあげた都市対抗野球。初期の都市対抗は大連のチームが優勝を分け合う展開となった。

 このことが示す通り、20世紀初頭の大連は日本を凌ぐほどの活気に溢れた町であった。日露戦争後のポーツマス条約により我が国に南満州の権益が認められ、政府が莫大な投資をしていたからである。治安も改善され、企業も進出し、その結果、中国や蒙古からどんどん移民が入り、人口が増加した。当時の大連はアジア1の繁栄をしていた都市なのであった。

 大連に大きな目玉観光スポットはない。しかし、私はこの町が面白くて仕方なかった。どこをどう歩いても「日本」が潜んでいるからである。町にある建物の多くは、日本が租借していた時代に建てられたもので、現在も現役として使われていた。現在の大連賽館は昔のヤマトホテル、現在の中国銀行は昔の横浜正金銀行、現在の中国商工銀行は昔の大連市役所、現在の大連鉄道公社は昔の満鉄本社、現在の大連日報は昔の満州日報、現在の大連医院は昔の満鉄医院…といった具合だ。見事に日本のものが残っている。建物ばかりではない。町の中央を横切る人民路はかつての山県通り、縦に走る上海路は大山通りと呼ばれていた道である。中心にある勝利橋もかつての日本橋、中山広場はかつての大連大広場である。あちこちに日本が作ったものがあり、現在もそのまま残っているのである。

 このように大連の町は日本人の手によって造られ、繁栄していったのである。そんな大連を象徴するような場所がある。大連港である。ここは、十年間の満鉄経営の10%、港湾建設費に限って言えば87%にあたる約1千6百万円(当時の物価で。ちなみに1926年の国家予算は15億円。)の莫大な費用を投じて作った港。有事の際に備えるインフラ整備が急務だったとは言え、熱の入れ方は半端ないものであった。ここから石炭や大豆、高梁などが輸出され、電化製品や自動車が日本から入ってきたという。また大連港は、多くの日本人が新天地を求めてここから上陸し、敗戦後は引き揚げの舞台ともなった。歴史的に見ても大きな港なのだ。

 私は寒風吹きすさぶ大連港にしばらく佇んでいた。国内外の主な港への航路があり、センタービルの中は多くの旅行客でにぎわっていた。奥の埠頭の方へ目をやると、クレーンが立ち並んでいる。ちょうどコンテナの積み出しをしているようであった。現在も上海、天津に次ぐ中国第三の港として活動している大連の港。先人たちが国力を賭けて作り上げたこの港は、今も昔も町の経済を支える港なのであった。

 先人たちが作りあげた大連の町。そこには先人たちの町つくりに賭ける気概の跡が今でも残っていた。

つづく
写真はこちらから→http://blog.livedoor.jp/genki_eguchi/

2009年1月15日 (木)

満州路を行く 1 〜旅順〜

 我が国が大陸から引き揚げて60年以上の歳月が流れた。明治以来、国家存亡の生命線となった満州。我々日本人にとって満州は特別な地である。私はかねてから満州の地で眠る先人たちに感謝の意を伝えたいと考えていた。国家の威信と存亡を賭けた戦い。そこで先人たちは何を考え、何をしたのか?とにかく「百聞は一見にしかず」である。一度その大地を踏みしめようと思い立ち、年末年始の休みを利用して満州に行ってきた。今日から何回かにわけて連載していきたい。

 今回の旅には2つの「旅」があった。1つは文字通り、空間を移動する旅である。人に触れ、生活に触れ、飲み食いをする。旅の醍醐味とはそうしたところにある。しかし、今回の旅はそうしたことだけではなかった。時間をさかのぼる旅。そういう旅でもあった。行った先々で歴史に思いを馳せる。それは私にとって大きなことであった。

 成田から三時間、大連周水子空港に着き、私は現地のツアーに参加し、旅順へと向かった。旅順は現在も軍が使用していて、基本的には現地のツアーに参加しないと観光することができない。そのため私は現地のガイドさんと共に旅順を見て回った。

 私がまず訪れたのは東鶏冠山北堡塁である。ここは後述する203高地と共に日露戦争の最大の激戦地となった場所である。日清戦争から10年、不凍港を求めじりじりと南下するロシアの勢力に我が国は恐れおののいていた。すでにこの時期のロシアは、北清政変に乗じて満州全域を占領し、親露派が政権を握った韓国をも事実上の保護国にしてしまっていた。このままでは国家の存亡に関わる。日本は満韓交換論などの解決策を何度となく提案するがロシアの態度は変わらなかった。もはや祖国を救うにはロシアとの開戦は避けられない。そこで勃発したのが日露戦争である。開戦すると陸軍はただちに黒木為禎大将率いる第一軍を朝鮮半島に、奥保鞏率いる第二軍を遼東半島に派兵し、進撃していった。ここ旅順は当初海軍によって攻められていたが、完全に要塞化された旅順を海から攻めるのは不可能に近いことだった。そこで陸軍の第三軍が陸上から旅順攻略の任に当たるのであった。司令官に乃木希典大将、参謀長に伊地知幸介少将という布陣である。旅順はこの第三軍の舞台となる。第三軍は当初、旅順要塞を正面から突破しようとこの地を攻めていた。その際に攻めていたのが、この東鶏冠山北堡塁である。ここで日本軍は4ヶ月以上も死闘をしたのである。しかし、10万発以上の大砲撃を加えるも我が軍は全滅。戦死者5千、負傷者1万人という世界史上に残る大損害であった。東鶏冠山北堡塁には今でも塹壕跡や堡塁に生々しく弾痕が残っている。まるで蜂の巣のようになっていて、戦闘の激しさが伝わってくるようであった。ここまでの激しい戦いをされた先人たちに自然と頭がさがる思いであった。

 次に訪れたのは203高地である。第三回総攻撃で作戦の軸足は正面突破から203高地に移され、以後はこの地が攻防の舞台となった。頂上からは旅順港が一望でき、ここから砲撃を加えるためである。しかし、その戦闘も激しさを極めるものであった。死者一万五千、負傷者四万四千という日露戦争最大の激戦地となったのである。当時の203高地には日本兵士の死体が累々と折り重なり、その上を別の兵士が乗り越えて戦っていたという。戦闘には時折、両軍合意の休息があり、死体を収拾する時間があった。そうでもしないと死体の山で戦闘すらできないのであった。これは日本の独立を守るべく戦われた戦争。いかに過酷であったかは想像に難くない。中腹には乃木大将の次男保典少尉のお墓もある。墓前に立ったとき私には込み上げてくるものがあった。先人たちの犠牲で今の時代があるということを感じないわけにはいかなかった。今は国外と言えど、ここは日本人にとって聖なる場所である。先人たちに感謝し、しばらく手を合わさせてもらった。

 最後に水師営の会見場に行った。結局、203高地は乃木大将から指揮権を譲り受けた児玉源太郎総参謀長により落とされた。28センチ榴弾砲を使って攻めるという常識をやぶる作戦が見事に効果をあげたのである。遂にロシアは降伏した。そして、1月5日に乃木大将とステッセル将軍がここ水師営で会見を行なったのである。乃木大将が武士の名誉を保つということでステッセル将軍に帯刀を許したという武士道の精神を象徴するエピソードが有名である。中には写真や資料が展示されていて、当時を想像しながら見学させてもらった。

 現在の平和な日本。それは先人たちの貴い犠牲の上に成り立っている。先人たちは国の威信と存亡を賭けて命懸けで戦ってくれた。まさに現在の平和な日本は先人たちの贈り物なのである。一方の我々はどうであろうか?子孫にどのような社会を残すことができるのだろうか?先人たちに天国で怒られないように、この社会を立派に子孫たちに引き継がなければならない。そう決意を新たにし、私は旅順を跡にした。

つづく

写真はこちらから→http://blog.livedoor.jp/genki_eguchi/

<参考文献>
渡部昇一著『昭和史』(ワック出版、2003年)
司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋、1969年)
黄文雄著『満州国の遺産』(光文社、2001年)
水島吉隆著『満州帝国の戦跡』(河出書房出版、2008年)

2009年1月10日 (土)

箱根駅伝総括

 正月の2日、3日、毎年恒例の箱根駅伝が行なわれた。私は大の駅伝ファンである。テレビにかじりついて見させてもらった。

 今大会は戦前からずっと駒澤、早稲田の二強というように騒がれていた。実際の戦力を見るとまさしくその通りであり、他校を圧倒する戦力を持っていた。私もこの2校が優勝争いをすると読んでいた。しかし、そうならないのがスポーツの面白いところ。蓋を開けてみれば、大手町のゴールに最初に飛び込んできた襷は紫でもエンジでもなく鉄紺色であった。東洋大学の初優勝。まさに驚きの結果に終わった。今回はその総括をしてみたい。

 今大会の最大の驚きは駒澤大学のまさかの失速であっただろう。優勝争いに絡むどころか、シード権争いにさえ絡むことなくまさかの13位。三大駅伝通算16勝、箱根は02年から05年までの4連覇を含む6勝と抜群の成績と安定感を誇る平成の常勝軍団駒澤。その駒澤がこれほどまでの姿を見せたのは、近年では初めてであった。1区で区間19位で出遅れ、2区で宇賀地強が11人抜きをするも、3区と4区が区間21位と区間19位。この時点で勝負あってしまった。

 一方の早稲田も往路は予想通りの強さを見せ付けたが、復路はらしくないレースを展開する。1区は1年生三羽ガラスの一人、矢沢曜。19キロ時点でトップに立つとそのまま逃げ切り区間賞。2区の尾崎貴宏は、別次元の走りを見せていたモグスと木原真佐人に抜かれはするものの28分台のランナーの集う2区の中で区間7位。上々の成績を残す。3区、4区は早稲田の強さを見せ付ける区間となった。3区はオリンピックランナーの竹澤健介。レース前半の流れを完璧に決める区間新記録。4区は三羽ガラスの二人目三田裕介。この三田も区間新記録の快走だった。その早稲田の独走に待ったをかけたのが東洋大学であった。一年生柏原竜二の驚異的な走りである。私は3分差なら追い付けると思っていたが、それを上回る4分58秒差をひっくり返してしまったのだ。これには私もびっくりした。とは言うものの、この時点で早稲田はトップと22秒差。レースは完全に早稲田のものと思った。

 しかし、復路。早稲田に誤算が続いた。まずは6区。山下りのスペシャリスト加藤創太がまさかの腹痛に襲われるのである。最後は意地で18秒差の首位を守るが、渡辺康幸監督の目論見では4分差をつけなければならない区間だった。このあたりから早稲田の走りに狂いが生じてきた。7区は一年生の八木勇樹。加藤の4分を7区で作ろうと前半から飛ばした。しかし、これが裏目。後半でペースが落ち、わずか12秒差で8区へ。襷を受けた中島賢士もらしくない走りをし、16キロ過ぎで抜かれ、突き放されてしまった。9区の朝日嗣也は独走で逃げるのが得意な選手。まさかの追う展開に長所が消されてしまった。結果論だが、この区間を追い上げの得意な高原聖典なら違った展開になっていたかもしれない(大きなケガはなかったようだ…)。10区三戸格はなぜか安全ペース。オーバーペースで突っ込むべきところを無難に走り、総合2位のままフィニッシュした。

 この2校は、何が敗因だったのだろうか?私が思うに区間配置のように感じる。駒澤の場合は1区である。箱根も三大駅伝も未経験の末松裕一を起用したが、これが完全に裏目になってしまった。1区はレースの流れを決める重要な区間。深津卓也を欠くという大きなダメージはあったが、前回と同様に1区で百戦錬磨のキャプテン池田宗司を起用していたら、ここまでの負けはなかったのではないだろうか?早稲田の場合は5区である。5区は4年前からコースが変更され、最長区間となった。そのため、この区間に大砲を起用すれば3〜5分の差が逆転できるのである。5区はそのような区間になった。もしこの区間に1年生三人の誰かを起用していたら?復路は違った展開になったかもしれない。いずれにしても結果論ではあるが、駅伝の流れの怖さを思い知らされるレースだった。

 それにしても東洋にはビックリさせられた。部員の不祥事、それに伴う監督の辞任で出場すら危ぶまれ、12月末までガタガタの状態だった。それが蓋を開けてみれば優勝。そこには4年生たちの奮闘があったようだ。出場が決まり、走れる喜びを誰よりも感じていたのは彼らだったのだろう。各選手の走りを見ても優勝への執念は本当に強かったと思う。特に復路は執念のレースを展開する。7区から10区の4人の前半抑えて後半勝負という冷静かつ記録よりも勝ちに徹した走りである。後ろを走る早稲田にも各区間の後半で引き離すという心理的なダメージを与え続けていた。出場すら危ぶまれていた状態から一転して出れるようになったことから全員の心を一つにしたのだろう。本当に素晴らしいレース運びであったように思う。

 東洋大学の初優勝で幕を閉じた箱根駅伝。11時間強の熱いドラマを堪能した2日間だった。

P.S 正月の聖望野球部のあきら会に出席しました。写真を載せておきます。
写真はこちらから→http://blog.livedoor.jp/genki_eguchi/

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