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2008年12月20日 (土)

佐賀にて

Getattachment  先週、仕事で福岡へ行き、週末を佐賀で過ごした。佐賀は父方の実家のある土地である。従兄に会い、久しぶりの佐賀を満喫させてもらった。

 博多駅から鹿児島本線に乗り、鳥栖で乗り換え、しばらく行くと佐賀に着く。駅を降りると早速飛び込んできたのは「降りチャリ」という看板だった。もちろん意味は「ここで自転車から降りろ」という意味である。佐賀の方言では語尾に「チャリ」をつけることから自転車とかけて「降りチャリ」としているのである。その傍をヘルメットをかぶった中学生が自転車に乗って過ぎて行く…。この光景を見たとき、佐賀に着いたなという実感が込み上げてきた(笑)。

 本当に久しぶりの佐賀だった。小学生の頃は休みの度に帰っていたのだが、この数年はすっかり足が遠退いていた。私は早速、祖母の墓参りをすることにした。佐賀駅からタクシーを拾い、5分も行くと見渡すかぎりの田園地帯となる。いつも思うのだが、この田舎っぷりには天晴れだ。程なくして、南里の交差点が見えてきて、左に曲がると正定寺というお寺がある。祖母の墓はそこにある。私は正定寺の前のたばこ屋でろうそくと線香とマッチを買った。全部で195円。200円渡して立ち去ろうとしたところ、たばこ屋のおかみさんに呼び止められる。「ご縁があるように」と5円のお釣りをもらった。

 そして、祖母にご無沙汰していたお詫びと就職の報告をしたあと、議員秘書をしている従兄に会うために事務所へと向かった。選挙も近いことから、いつもの事務所ではなく臨時の選挙事務所であった。

 従兄の存在がなかったら、私の人生はもっと違ったものになっていただろう。私にとって従兄はそのような存在である。私が小学生のとき、従兄は早稲田大学に通っていて、応援部に所属していた。従兄の応援している姿を一目見るため、たまたま見に行った慶早戦。その日に私の現在までの人生は決まったように思う。今までに見たこともないような圧倒的な雰囲気。慶早戦は、高校野球にもプロ野球にもない独特なものであった。野球部員だけではなく学生も一体となって戦っている。こんな野球を見たことは今までで一度もなかった。小学生の私は、その光景にただただ圧倒されるのみであった。

 それがきっかけで私は野球をはじめた。頭の片隅にはいつも慶早戦があった。3浪してまで慶應にこだわったのもこのことが大きい。私の従兄は2浪して早稲田に入った。しかも、当時の慶應打線は1番印出さん、2番古葉さん、3番赤池さんと1番から3番までが2浪して入ったという苦労人の打線だった。浪人時代に折れそうになったときには、そんなことを考えていつも自分を奮い立たせていたことが懐かしい。余談になるがホンダの長野久義選手が大学4年時の日本ハムに続いて、今回もロッテの入団を拒否したらしい。私の「慶應義塾」のような存在が彼にとっては「巨人軍」なのだろう。その気持ちが痛いくらいよくわかる。成功の要諦は成功するまで続けることにある。彼の前途に幸あることを祈る。

 そして、3年間の浪人の末、私は慶應に合格した。迷いなく野球部に入部し、仲間たちと野球に明け暮れた4年間だった。慶早戦に出場はできなかったが、私は本当に悔いのない野球人生を送らせていただけた。それというのも、あの日があったから、従兄あってこそだと思うのである。

 その日、私と従兄はおいしい佐賀牛のステーキのおいてあるレストランで食事をした。佐賀牛は一昔前までは「松阪牛」として売り出されていた品種である。当時、松阪牛は松阪だけの飼育では到底出荷量に足りず、佐賀で2歳まで飼育したのち、松阪で1年飼育して、「松阪牛」として出荷していたのである。しかし、今では「佐賀牛」も立派なブランドの地位を確立した。佐賀牛として全国に売り出しているのだ。そう言えば、北朝鮮産のシジミも宍道湖で「1泊」して、「宍道湖産」として店頭に並んでいるそうである。産地表示も考えなければならないと感じた。

 佐賀牛は本当においしかった。口の中に広がるフワッとした食感がたまらない。佐賀の地酒「窓乃梅」との相性も抜群だった。基本的に九州は焼酎の文化だが、佐賀は米所とあって日本酒もおいしいのである。佐賀の食べ物はいつ来ても本当においしい。心から「うまい」と叫びたくなるようなものばかりである。

 レストランで従兄とはいろいろな話を語り合った。小さい頃の話、近況報告、六大学の話、旅行の話、政治談義、親戚の話、最近読んだ本などなど。いくら時間があっても語り尽くせないほどだった。レストランだけでは語り切れずハシゴをする。酔いもまわり、「所得税ではなれなくても、酒税では高額納税者になるぞ」などと言って、午前2時過ぎまで4軒も飲み歩いた。本当に楽しいときであった。

 私の人生を決定づける日を作ってくれた従兄。そんな従兄に感謝しながら佐賀を跡にした。


P.S ちなみに全国1位(佐賀北高校)と全国2位(聖望学園)のOBです(笑)。

2008年12月16日 (火)

サービスと現場力

 先日、出張に行く際の新幹線の中で、PHP研究所の江口克彦さんの著書を読んだ。その中で大変感動したエピソードがあったので、ここに書き留めておきたいと思う。

 大阪万博のときの話。パナソニックの創業者・松下幸之助先生が自社で建てた松下館に入場するために、真夏の炎天下の中を二時間も列に並んだという話である。このとき、幸之助先生は75歳。途中でその姿に気づいた係員が慌てて走りより、通用口からの入場を勧めたという。しかし、幸之助先生はこの勧めを断った。「この暑い中、長い列に並んでいる方々をみて申し訳ないと思った。いったいどれほどの時間で入れるのか、自分で計っている」というのが理由だった。入り口にたどり着くと係の人たちを呼び集め、帽子を大量に作って松下館に並ぶすべての人にその帽子を配ったという。自分で並んでみて、炎天下に帽子もなく並んでもらうのは申し訳ないという気持ちからであった。これが大きな反響を呼んだ。多くの人たちが松下の帽子をかぶったまま会場を歩いたため、大きな宣伝効果となったのである。結果、松下館は入場者数760万人という万博の全パビリオンでトップの人気パビリオンになった。

 このエピソードは我々に2つのことを語りかけているのではないだろうか?第一はサービスの精神である。幸之助先生は何も宣伝効果を狙って帽子を配ったわけではない。人が何を望み、何をしてほしいかを的確に把握し、それを実行する。要は思いやりの心を持つということである。思いやりの心こそ仕事を成功させる上での決定的に重要な要素だということである。

 第二に常に現場の視点を持つことの重要性である。松下幸之助先生は現地現場主義ということを生涯言い続けていた。「物事の真実は常に現場にある」。考えてみれば当たり前なのだが、ついつい忘れがちなものである。経営の神様と呼ばれる幸之助先生でも、75歳という高齢で現場の感覚を大切にされていた。机上で計算することも必要ではあるが、それだけでは物事の本質を理解することはできない。現場を見て、肌で体感してこそ、物事は理解できるものである。私も常に現場から学ぶことを今まで以上に心がけていきたい。

 以上2点、学ばせてもらった。

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