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2008年11月11日 (火)

旅人たちの宿

 テルアビブから再びエルサレムへ戻った。先進国際都市を見たあとの歴史都市というのもまた趣深い。エルサレムを1日かけて再びのんびり満喫させてもらった。そんなエルサレムで偶然立ち寄った宿でとても面白いことが待ち受けていた。今日はそのことを書いていきたい。

 エルサレムのダマスカス門の近くに「ファイサル」という宿がある。ひょんなことでこの宿に立ち寄ったのだが(なんと聖墳墓教会でパルミラをご一緒させてもらったカップルさんと偶然再開。カップルさんに導かれるようにして舞い込んでしまった…)、この宿が一風変わった宿なのであった。なんとこの宿に泊まっている人は全員日本人。それも20人弱もの人が泊まっていたのである。20代30代の人ばかりで、まるで寮のようであった。

 早速、自己紹介。すると不思議なことが起こった。「どのくらい旅行しているのか?」という問いに私が「11日間」と答えると、皆一様に驚いていたのである。それもそうだろう。社会人で有休をとるのは難しい。敬老の日と秋分の日と土日をつなげて何とか作った夏休みである。私はそういう意味で驚いているのかと思った。しかし、驚きの理由は逆だった。私の旅行の期間が余りにも短いという意味で皆さん驚かれているのだった。この宿にいる人たちは皆、長期の旅行者。旅行の期間が1年や2年というのは当たり前。中には5年も旅行をしている人もいたのである。このエルサレムだけでも1ヶ月くらい滞在しているという人ばかりであった。学生さん、脱サラした人、フリーのライター、自営業…立場は人それぞれ違えど、安宿に置いてある「情報ノート」や噂を聞き付けてこの宿に集まった旅慣れしている人ばかりであった。

 私は本当にビックリしてしまった。私の想像をはるかに超えていたからだ。確かに日本で貯めた150万円程度のお金を軍資金にし、安宿のドミトリーに泊まり、自炊をすれば、途上国では一日500円ほどで生活ができる。5年間旅行するくらい容易なことなのだ。私は今まで海外旅行には行っている方だと思っていた。しかし、上には上がいるものである。こんなことをしている人が大勢いたとは全く知らなかった。そんな彼らからすれば、私の慌ただしい旅行など奇異に見えたのだろう。まるで今までと違った生き方を提示されているようであり、私も新鮮であった。

 そんな彼らの中には、パレスチナ人の分離壁反対運動に参加してきたというすごい人もいた。パレスチナ自治区にビリン村という村がある。ここで現在、パレスチナ人たちが闘争をしているのである。イスラエル政府はビリン村をユダヤ人の土地だという見解を示し、パレスチナ人たちを追い出しにかかっている。ビリン村に壁を築き、パレスチナ人たちの生活源であるオリーブの木を切り倒しているのだ。人道的な見地から国連は非難決議を採択。しかし、イスラエルはこのことを一向に辞めようとはせず、紛争に発展している。宿にいた人はこのパレスチナ人たちのデモに参加してきたというのである。イスラエル兵たちが容赦なく投げる催涙弾にも負けずにデモをしてきたという武勇伝を聞かせてもらった。

 中東は「文明の十字路」という。しかし、十字路であるのは文明だけではない。アフリカ大陸を縦断してきた人、インドから深夜特急ルートを来た人、アラビア半島から来た人、ヨーロッパ方面へ行く人…「ファイサル」に泊まっていた人たちは様々な地域からこの地に集まり、様々な地へと出発していく。中東は文明だけではなく、旅行者にとっても十字路だったのである。そんなことを感じたエルサレムの宿であった。

 翌日、私はエルサレムを出発し、アンマンで一泊したあと、日本への帰路についた。ヨルダン、シリア、パレスチナ、イスラエル。4つの国と地域の旅行もこれで終わり。笑いあり、涙ありの本当に内容の濃い旅行であった。「文明の十字路」中東。三大陸の狭間に位置していることから稀に見る激動の歴史をくぐり抜けてきた土地、中東。そこは感動と新たな発見の宝庫であった。もう少しここに居たい。そんな気持ちにさせられた旅であった。そんな今回の旅行の締めくくりにふさわしい光景が帰りの飛行機の中で待っていた。砂漠の中に沈む夕日…。寂しい想いを振り払うように私は中東を跡にした。



P.S 9月の日記がこんな時期まで先延ばしになってしまい申し訳ありませんでした。最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。感謝の意を伝えて締めたいと思います。
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2008年11月 9日 (日)

「決して止まらない町」

 再びティベリアに戻り、バスを乗り継いで、テルアビブへ向かった。

 ティベリアからテルアビブへと続く道はイスラエル農業の中心地エズレル平野の中を走る。日本に輸出されている「スウィーティー」や「ジャッファオレンジ」の産地として有名な地域だ。道の両側には果樹園が広がっていて、のどかな風景であった。

 そんな広大な大地を走ること2時間、突然、西新宿のような高層ビル群が現れた。テルアビブである。テルアビブは各国大使館、大学、金融機関、新聞社、企業、劇場などが集まるイスラエル一の大都市である。国会こそエルサレムにあるものの、それ以外のイスラエルの中核機能はすべてこの町に集中しているのである。人口も約200万人(テルアビブ圏で)。実にイスラエルの3分の1の人口がここテルアビブに集中している。私は今回初めてテルアビブを訪れたのだが、町の大きさには本当に驚かされた。あちこちを歩き回ったのだが、先進国というより、それ以上のものを感じる迫力であった。まるで町全体がエネルギーを発しているかのようにさえ感じた。

 そんな大都市テルアビブであるが、この町の歴史はというと非常に浅い。テルアビブの町ができたのは、なんと1909年。町ができて100年も経っていないのだ。イスラエルのほとんどの町は紀元前の歴史を持っている。そんな中でテルアビブは特異な存在と言える。

 では、なぜテルアビブがここまで発展したのだろうか?その答えはテルアビブという都市名そのものにあった。「テルアビブ」とはヘブライ語で「春の丘」という意味。シオニズム運動の父テオドル・ヘルツルの小説『アルトノイラント』(=古くて新しい土地)の一節からとった名前である。そう、ここはシオニズム運動の中心となった町なのである。荒廃した砂丘に過ぎなかったテルアビブに人が住みはじめたのは1909年。ヨーロッパから来た60家族が環境のよいユダヤ人の町を作りたいと移住したのが始まりだった。その後もユダヤ人国家建設の気運とともに人口は増加。1920年代にはポーランドから、30年代にはドイツからの移民が押し寄せた。テルアビブはユダヤのシオニズム運動の象徴として発展していったのだ。そんなテルアビブの町には、スローガンがある。「決して止まらない町」。いつも移民を受け入れ、ユダヤ人の大都市を作る気迫で溢れているのである。つまり、この町の大きさは、そのままユダヤ人の建国にかける意気込みの大きさその物なのである。エネルギーを感じたのは、そんなユダヤの意気込みを感じたからなのだろう。そんなテルアビブの町であった。

 しかし、ここで問題が発生した。金曜日にテルアビブについた私は、活動をしたのが土曜日。ユダヤ人の安息日にあたる日であったのだ。安息日とは『旧約聖書』に書かれている「何もしてはいけない日」のこと。一切の労働をしてはいけない日なのである。ユダヤの戒律は厳しく、歩く歩数や家事まで制限されているほどである(厳格な人は今でもそれを守っている。ユダヤ人ボクサーがボクシングのタイトルマッチで安息日を理由に棄権したのは有名な話)。そんな日なので、当然町は静まり返っていた。シャロームタワーをはじめとする観光スポット、資料館、レストランなどが閉まっているのはもちろん、バスや鉄道まで動いていなかった。私は途方に暮れてしまった。

 そうなってしまっては、やることは一つ。地中海で泳ぐことにした(笑)。泳ぐのは死海、ガリラヤ湖に続いて、この旅3回目。塩湖、淡水湖、海と3つの異なる塩分濃度で泳いだのだが、やはり海は本当に気持ちのいいものだった。ヨーロッパやアフリカから地中海を見ることはあったが、アジアから見る地中海というのもまた趣深い。アラム、ヒッタイト、ギリシャ、フェニキア、ローマ、イスラム…数々の民族が縦横無尽に交易をし、覇権を争い、民族興亡の舞台になったというのも頷ける。そんな歴史を持つ地中海で一時の海水浴を楽しませてもらった。

 シオニズムの象徴として今も発展し続けるテルアビブ。「決して止まらない町」は今日も走り続けている。

つづく
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2008年11月 4日 (火)

校歌の町

 我が母校聖望学園の校歌に「ナザレの君が勤しみ居しし」というフレーズがある。私の母校はキリスト教系の学校、「ナザレの君」とはもちろんイエス・キリストのことである。ナザレとはイエスが幼少期から約30年間過ごしていた町のことだ。私は聖望学園入学以来ナザレという町がどんな町かずっと気になっていた。今回、イスラエルを旅行してようやくナザレを訪れ、それを実現することができた。

 エルサレムの新市街にあるバスターミナルからバスに乗り3時間、ティベリアという町に着いた。ここからナザレまではバスで一時間の距離だが、あいにく日が暮れてしまいティベリアで一泊することになった。ナザレ観光は明日にして、ティベリアの夜を楽しむことにしたのである。

 ティベリアはガリラヤ湖畔にたたずむ高級リゾート地である。湖沿いにはシェラトンやヒルトンといったリゾートホテルが並び、ハーバー沿いに散策道が続いている。そこにはバーやレストランが並び、ショーのようなものまでやっていた。さあ、ここからは財布との相談。せっかくリゾート地に来たのだから、リゾート気分を味わいたい。しかし、そんな気分を味わうだけのお金もない。散々悩んだ挙げ句、結局中途半端な中級ホテルに泊まった(笑)。それでも朝起きてカーテンを開けたときの壮大なガリラヤ湖の光景は一生忘れられない光景となった。ガリラヤ湖は朝日を浴びて眩しいくらいにキラキラと輝いていたのである。

 こんな綺麗な風景を見せられてはガリラヤ湖に飛び込まずにいられなかった。ナザレに行く前にガリラヤ湖で泳いでいくことにしたのである。聖書によるとイエスはこのガリラヤ湖の湖面を歩いて渡ったという。もちろん私は人間なので、ビーチで泳ぐのみである(笑)。ビーチに行くとそこには二人組のユダヤ人の少年たちがいた。簡単に自己紹介をし、一緒に泳いで遊び、楽しませてもらった(なぜか彼らは空手に興味があるようで、型を教えてあげると大喜びだった…)。淡水湖なので、死海のような浮力はない。塩分濃度の違いでこうも違うのかと感じた。はるか向こうに見える対岸は自衛隊が国連平和維持活動(PKO)の一環として派遣されているゴラン高原と呼ばれる地域だ。今回は行くことはできなかったが、「地球上で一番美しい花の高原」と呼ばれる地域である。機会があれば花の時季に行ってみたいものである。

 泳いだあと、ユダヤ人の少年たちと別れ、いよいよナザレの町へと向かった。ナザレは町全体が教会のような町であった。いたるところに教会が建てられいて、クリスチャンの観光客たちの祈りが繰り返されているのである。それもそのはず、ナザレはイエスの子供時代から30年間もその成長を見届けてきた町であるからだ。そんな数ある由緒正しい教会の中でも最も大きく、最も歴史があり、最も荘厳な教会が町の中心に建てられている。受胎告知教会だ。処女マリアが天使ガブリエルに受胎を告知された(ゾウリムシじゃないんだから、そんなことあるわけがないが…。子供が生まれるためには…(以下省略)…キリスト教徒がそう信じているのだから仕方がない…)という場所に建てられた教会である。受胎告知教会の聖堂の三角の屋根はアヴェ・マリアの「A」をかたどったもので、内部は百合の花をイメージしているというとてもきれいな教会であった。中央の祭壇にはマリアがお告げを受けたとされる洞窟がある。ここだけが岩がむきだしになっていて、かつての雰囲気を彷彿する空間であった。

 イエスが育ち、熱心に福音を説いた町ナザレ。校歌の町を堪能した。

つづく
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2008年11月 3日 (月)

聖地エルサレム

 ベツレヘムからバスに乗り、程なくしてエルサレムに着いた。

 エルサレムは標高8百メートルの山の上にある。砂漠の中にありながら、坂道が多く、変化に富んだ町だ。そんなエルサレムの町は2つの街からなっている。要塞のような城壁に囲まれた旧市街と住宅やビルの立ち並ぶ新市街である。2つの市街がコントラストを描くように一つの町エルサレムをつくっているである。

 私は早速旧市街へ行った。旧市街は巨大な城壁によって囲まれた要塞のような街だ。入り口は8つの城門しかなく、それ以外からは入ることができない。閉ざされた空間である。しかし、それはここが特別な場所だということを主張するかのようであった。そう、ここは本当に特別な場所。ユダヤ教にとっても、イスラム教にとっても、キリスト教にとっても聖地なのである。

 旧市街はいつ行っても喧騒と雑踏で溢れている。中は迷路のように道が入り組んだ商店街となっていて、ここに人が群がっているのだ。ここにいる人たちは、観光客だけではない。町の住民たちも買い物をしにここに押し寄せているのである。道端では店主たちの客寄せする声が響き、それを買う人の交渉も激しさを増している。そして、それがすり減った石畳の道に反響して喧騒となっているのであった。旧市街の道の幅は3メートル程しかない。人とぶつかりあいながら進まずにはいられないくらいの空間だ。そこにものすごい人が集まっているのである。旧市街は喧騒と雑踏が入り交じったエネルギー渦巻く空間であった。

 そんな人並みをかき分け、私はまず聖墳墓教会へと向かった。イエスが処刑されたゴルゴダの丘と言われる場所に建てられた教会である。キリスト教ゆかりの地はイスラエル中に広がるがあえて一つと言われればここを挙げる以外にない。そんな場所だ。聖墳墓教会を訪れている人のほとんどはキリスト教徒と思われる外国人観光客であった。教会内はローマ・カトリック、アルメニア、ギリシア正教、コプト等の各派が分割管理していて、それぞれの宗派がそれぞれの形式で祈りを捧げていた。しかし、その熱心さだけはどの宗派にも共通している。クリスチャンにとって本当に神聖な場所だということを肌で体感させてもらった。

 聖墳墓教会を抜け出し、そこから10分ほど歩くと嘆きの壁に着く。今度はユダヤ教徒たちの聖地である。ユダヤ教徒たちにとって最も大事な場所は元神殿のあった場所であるが、そこは現在はイスラム教の聖地となり、ユダヤ教徒たちはやむを得ず丘の西壁にあたる嘆きの壁で祈っているのだ。2000年に及ぶ離散の憂き目にあったユダヤ人たちの思いは彼らにしかわからないと言う。ユダヤ人にとっては一時も忘れることができなかった心の故郷なのである。壁の前はいつまでも立ち去ることなく熱心に祈りを捧げているユダヤ人たちで溢れていた。時が止まったように陶酔し、体を震わせながら祈る姿、壁の隙間に入れられた願い事の書かれた紙…。イスラエルの熱き心が詰まった空間であった。

 そこから右に折れ、通路を登っていくと神殿の丘という場所に出る。ここには岩のドームというムハンマドが昇天したドームがある。ここがイスラム教徒にとっての聖地である。ここは「神殿の丘」の名が示すとおり、かつてユダヤ教の神殿があった場所で、元々はユダヤ教の聖地であった。しかし、紀元70年ローマ帝国の時代に神殿が壊されると、ユダヤ教徒の聖地は西側の壁へと移っていった。その後ムハンマドがここで昇天したこともあり、現在はイスラム教の聖地となっているのである。岩のドームの中はイスラム教徒しか入ることはできない。それほど神聖な場所なのだ(それでもこそっと入ろうとしたら、警察官に追われ、200メートルくらい激走する羽目になった…汗)。ユダヤの過激派の中には今でもここにユダヤの神殿を復活させたいとする勢力もあるそうだ。万が一にもそうなれば、世紀の惨事が起こることは想像に堅くない。一触即発。そんな言葉も浮かんでくる。目の前の光景は静かだが、何があってもおかしくない状態が続いていることを意識させられた。

 旧市街を観光したあとシオの丘へ登った。ここには映画『シンドラーのリスト』で有名なオスカー・シンドラーの墓がある。ナチスの迫害を受けていたユダヤ人を救ったことでホロコーストの義人としと知られる人物だ。映画に倣い私も墓の上に石を置いて、黙祷をした。シンドラーと言えば、「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝さんも忘れてはならない。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。6千人のユダヤ人を救った人である。イスラエルの対日感情の良さは杉原さんの功績によるところが大きい。偉大な先人に感謝しなければならないと強く感じた。

 パレスチナ問題として、現在にも続く宗教対立。その中心地と言えるエルサレムの観光であった。エルサレムの歴史は本当に古い。数千年にわたる歴史そのものがこの町に深く刻みこまれている。現代合理主義では理解できない深遠な何かを感じずにはいられなかった。そしてそのことは過去に限ったことではない。エルサレムは現在もユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、世界の34億人が聖地と崇める場所なのである。それぞれがそれぞれの正義を持ち、妥協は覆され、新たな模索をしては頓挫する。今日起こっていることは「歴史」そのものだ。そんな歴史の連続性を意識させられたエルサレムの旅であった。

つづく
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