パレスチナ問題
舞台は『旧約聖書』の時代までさかのぼる。紀元前1250年、カナンの地(今のイスラエル)にユダヤ人の王国が建てられた。サウル王に始まり、ダビデとソロモンの時代に栄華を極め、この地に君臨していたのであった。しかしその後、王国の力は徐々に弱体化した。王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに、ユダ王国はネブカドネザル王率いる新バビロニアに滅ぼされてしまうのであった。特に南の住民はメソポタミアに連行されて奴隷になるという「バビロン捕囚」という受難まで経験する。以来、ユダヤ人は国家を持たない民族として世界中に散らばっていったのであった。
ユダヤ人たちの受難はさらに続く。ヨーロッパにおける迫害の歴史である。迫害される理由は主に2つ、一つはキリスト教がユダヤ教から自立するにはユダヤ教を敵視する必要があったこと(そのためにイエスが殺されたのはユダヤ人のせいになっている…イエスもユダヤ人なのだが…)、もう一つはユダヤ人たちが就いていた職業が金貸しであったこと(当時は金貸しは賤しい職業とされていた…現代の金融のイメージとは真逆…)だ。ユダヤ人は徹底的に差別され、弾圧されたのである。魔女狩りや強制移住から始まり、ロシアのポグロム、ナチスのホロコーストに至るまで迫害の歴史を歩んでいくのであった。
そんなユダヤ人たちも黙ってはいなかった。転機となったのは1894年のドレフュス事件だ。フランスの軍人・ドレフュス大尉がユダヤ人であるがゆえにスパイ容疑をかけられ、終身刑を言い渡されたという事件である。この事件を外国人特派員として取材をしていた一人のジャーナリストがいた。テオドル・ヘルツルというオーストリア国籍のユダヤ人である。ことの子細を目の当たりにしたヘルツルはユダヤ人の無念を思う情念に火がついた。そして発表されたのが『ユダヤ人国家』という小冊子である。これがイスラエル建国のルーツなのである。以来、エルサレムのシオの丘に国家を作るという運動、シオニズム運動として発展していった。
こうしてシオニズム運動は盛り上がっていくのだが、事態をさらに複雑にすることが起こった。イギリスの三枚舌外交である。第一次世界大戦の時代、当時パレスチナを支配していたオスマン帝国は同盟国側として、イギリスは協商国側として参戦していた。戦争を優位に進めたいイギリスはユダヤ、アラブ両民族に独立を約束するというダブルスタンダードをやってのけるのである。まずはユダヤ人。イギリスはユダヤ人の財政的な支援をどうしても取り付けておく必要があった。そこで、ユダヤ人の財閥首領であるライオネア・ロスチャイルド卿にイギリスの外相バルフォアが一枚の書簡を送るのである。そこにはパレスチナの地にユダヤ国家を作るとの約束がなされていた。有名な「バルフォア宣言」である。しかし、その一方でアラブに対してもパレスチナ人の独立を認めるのである。同盟国側の後方を攪乱させるためであった。英カイロ駐在員ヘンリー・マクマホンとメッカ大守フサイン(現ヨルダン国王の高祖父)の間で交わされたパレスチナ国家建国を約束するという「フサイン・マクマホン協定」だ。さらにその裏でも、イギリスはフランスと戦後の領土分配を取り決めていたのである。シリアとレバノンをフランス領に、パレスチナとヨルダンをイギリス領にするとした裏工作「サイクス・ピコ協定」である。上記の3つの協定はいずれも並立しない。イギリスはまことに破廉恥な外交を見事にやってのけたのであった。
第一次世界大戦後、パレスチナの地はイギリス領となった(結局「サイクス・ピコ協定」が採用…)。当然のごとくアラブとユダヤの両民族はパレスチナの地で反目するようになる。統治はしてみるものの、イギリスは彼らの対立に完全に手を上げてしまう。第二次世界大戦後、できたばかりの国際連合に丸投げし、自らは撤退していくのであった。イギリスは歴史に残る禍根を作り出し、責任をとることなしに去っていくのであった。
イギリスが去った後、ユダヤ人たちはパレスチナ人の追い出し作戦にかかる。その結果、多くのパレスチナ人たちが難民化。そして1948年にイスラエルの建国宣言と続くのである。
建国と同時にユダヤとアラブは戦争に突入した。周辺アラブ諸国(シリア、エジプト、サウジアラビア、レバノン、ヨルダン、イラク)の軍隊が怒涛の如くイスラエルへ押し寄せたのだ。その数15万人。対するイスラエルの兵力は3万人。しかし、アラブ軍は連携をかき、イスラエルがこれを完璧に撃退、勝利したのである。その後もエジプト大統領ナセルのスエズ運河国有化にイスラエルが介入した第二次、ゴラン高原問題に端を発した第三次、エジプトの失地回復運動により開始した第四次と4度の戦争をするが、いずれもイスラエル側の勝利に終わった。こうしてパレスチナ人たちの難民化に拍車がかかってしまうのである。その後も穏健派で知られるエジプトのサダト大統領の暗殺やイスラエルのレバノン進攻があって、問題はさらに混迷を深めていった。
そんな中、和平交渉も行われてきた。顕著な例が1993年のクリントン米大統領による和平交渉だ。この交渉によりヨルダン川西岸地区とガザのPLOによる自治が承認されるが、和平交渉にあたったイスラエルのラビン首相が暗殺。和平交渉は暗礁に乗り上げるのである。その後も双方による自爆テロが相次ぎ、強硬派のシャロンが首相に就いてからは解決の糸口さえ見えない状態になった。パレスチナ問題はこのようにして現在まで続いているのである。
今回はごく大まかにパレスチナ問題の経緯を話してきた。この問題は本当に根が深い。解決の糸口さえつかめない状態である。次回は、いよいよこの問題の中心地であるエルサレムで感じたことを書いていきたい。
つづく

