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2008年10月30日 (木)

パレスチナ問題

 話を先に進める前に、この辺りで、パレスチナ問題とその歴史について触れておきたいと思う。歴史的背景を知ることなしに、この地域を論じることは不可能だからだ。今回はそのことを書いていこうと思う。

 舞台は『旧約聖書』の時代までさかのぼる。紀元前1250年、カナンの地(今のイスラエル)にユダヤ人の王国が建てられた。サウル王に始まり、ダビデとソロモンの時代に栄華を極め、この地に君臨していたのであった。しかしその後、王国の力は徐々に弱体化した。王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに、ユダ王国はネブカドネザル王率いる新バビロニアに滅ぼされてしまうのであった。特に南の住民はメソポタミアに連行されて奴隷になるという「バビロン捕囚」という受難まで経験する。以来、ユダヤ人は国家を持たない民族として世界中に散らばっていったのであった。

 ユダヤ人たちの受難はさらに続く。ヨーロッパにおける迫害の歴史である。迫害される理由は主に2つ、一つはキリスト教がユダヤ教から自立するにはユダヤ教を敵視する必要があったこと(そのためにイエスが殺されたのはユダヤ人のせいになっている…イエスもユダヤ人なのだが…)、もう一つはユダヤ人たちが就いていた職業が金貸しであったこと(当時は金貸しは賤しい職業とされていた…現代の金融のイメージとは真逆…)だ。ユダヤ人は徹底的に差別され、弾圧されたのである。魔女狩りや強制移住から始まり、ロシアのポグロム、ナチスのホロコーストに至るまで迫害の歴史を歩んでいくのであった。

 そんなユダヤ人たちも黙ってはいなかった。転機となったのは1894年のドレフュス事件だ。フランスの軍人・ドレフュス大尉がユダヤ人であるがゆえにスパイ容疑をかけられ、終身刑を言い渡されたという事件である。この事件を外国人特派員として取材をしていた一人のジャーナリストがいた。テオドル・ヘルツルというオーストリア国籍のユダヤ人である。ことの子細を目の当たりにしたヘルツルはユダヤ人の無念を思う情念に火がついた。そして発表されたのが『ユダヤ人国家』という小冊子である。これがイスラエル建国のルーツなのである。以来、エルサレムのシオの丘に国家を作るという運動、シオニズム運動として発展していった。

 こうしてシオニズム運動は盛り上がっていくのだが、事態をさらに複雑にすることが起こった。イギリスの三枚舌外交である。第一次世界大戦の時代、当時パレスチナを支配していたオスマン帝国は同盟国側として、イギリスは協商国側として参戦していた。戦争を優位に進めたいイギリスはユダヤ、アラブ両民族に独立を約束するというダブルスタンダードをやってのけるのである。まずはユダヤ人。イギリスはユダヤ人の財政的な支援をどうしても取り付けておく必要があった。そこで、ユダヤ人の財閥首領であるライオネア・ロスチャイルド卿にイギリスの外相バルフォアが一枚の書簡を送るのである。そこにはパレスチナの地にユダヤ国家を作るとの約束がなされていた。有名な「バルフォア宣言」である。しかし、その一方でアラブに対してもパレスチナ人の独立を認めるのである。同盟国側の後方を攪乱させるためであった。英カイロ駐在員ヘンリー・マクマホンとメッカ大守フサイン(現ヨルダン国王の高祖父)の間で交わされたパレスチナ国家建国を約束するという「フサイン・マクマホン協定」だ。さらにその裏でも、イギリスはフランスと戦後の領土分配を取り決めていたのである。シリアとレバノンをフランス領に、パレスチナとヨルダンをイギリス領にするとした裏工作「サイクス・ピコ協定」である。上記の3つの協定はいずれも並立しない。イギリスはまことに破廉恥な外交を見事にやってのけたのであった。

 第一次世界大戦後、パレスチナの地はイギリス領となった(結局「サイクス・ピコ協定」が採用…)。当然のごとくアラブとユダヤの両民族はパレスチナの地で反目するようになる。統治はしてみるものの、イギリスは彼らの対立に完全に手を上げてしまう。第二次世界大戦後、できたばかりの国際連合に丸投げし、自らは撤退していくのであった。イギリスは歴史に残る禍根を作り出し、責任をとることなしに去っていくのであった。

 イギリスが去った後、ユダヤ人たちはパレスチナ人の追い出し作戦にかかる。その結果、多くのパレスチナ人たちが難民化。そして1948年にイスラエルの建国宣言と続くのである。

 建国と同時にユダヤとアラブは戦争に突入した。周辺アラブ諸国(シリア、エジプト、サウジアラビア、レバノン、ヨルダン、イラク)の軍隊が怒涛の如くイスラエルへ押し寄せたのだ。その数15万人。対するイスラエルの兵力は3万人。しかし、アラブ軍は連携をかき、イスラエルがこれを完璧に撃退、勝利したのである。その後もエジプト大統領ナセルのスエズ運河国有化にイスラエルが介入した第二次、ゴラン高原問題に端を発した第三次、エジプトの失地回復運動により開始した第四次と4度の戦争をするが、いずれもイスラエル側の勝利に終わった。こうしてパレスチナ人たちの難民化に拍車がかかってしまうのである。その後も穏健派で知られるエジプトのサダト大統領の暗殺やイスラエルのレバノン進攻があって、問題はさらに混迷を深めていった。

 そんな中、和平交渉も行われてきた。顕著な例が1993年のクリントン米大統領による和平交渉だ。この交渉によりヨルダン川西岸地区とガザのPLOによる自治が承認されるが、和平交渉にあたったイスラエルのラビン首相が暗殺。和平交渉は暗礁に乗り上げるのである。その後も双方による自爆テロが相次ぎ、強硬派のシャロンが首相に就いてからは解決の糸口さえ見えない状態になった。パレスチナ問題はこのようにして現在まで続いているのである。

 今回はごく大まかにパレスチナ問題の経緯を話してきた。この問題は本当に根が深い。解決の糸口さえつかめない状態である。次回は、いよいよこの問題の中心地であるエルサレムで感じたことを書いていきたい。

つづく
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2008年10月21日 (火)

イスラエルの国境越えとパレスチナ自治区

 死海を訪れたあと、西口さんと別れ、イスラエルへ向かった。

 いよいよ世界一厳しいと言われるイスラエルの入国審査である。本当にビックリするようなセキュリティの高さで、国境を越えるだけで半日かかるほどだった。イスラエルとヨルダンには3ヶ所のボーダーが開設されている。そのうち私が利用したのは、キング・フセイン橋という国境である。この橋は日本の円借款で建設されたヨルダン川に架かる小さな橋である。これが現在、ボーダーとして利用されているのだ。パスポートチェック、手荷物検査、金属探知機、身体検査ののち、いよいよ入国審査へ。これが相当な難物であった。ピストルは持ってるか?麻薬は持ってるか?テロリストに友達はいるか?(鳩山さんはダメですね…(笑))等々の質問や親子三代の名前(親戚にテロリストがいないかをチェックするため)などをしつこく聞かれ、本当に疲れる国境越えだった。

 イスラエルに入国する際には気を付けなければいけないことがある。入国スタンプのことだ。周辺のアラブ諸国がイスラエル渡航の履歴がある人(つまり、パスポートにイスラエルのスタンプがある人)の入国を拒否しているからだ。イスラエル入国の際には“No Stamp”と言って別紙に押してもらわなければならない。しかし、別紙にきちんと押してもらえるかどうかは入国審査官の気分次第のようで、中には押してしまう審査官もいるようであった。これが私にとって悩みの種であった。しかし、幸いにも私の列の審査官は別紙に押してくれて、一安心させてもらった。気付けば6時間が経過している。本当に緊張の連続の長い長い国境越えだった。

 そんなこんなでなんとか国境を通過。セキュリティの高さにただただ驚くのみであった。イスラエルにはこの他にも幹線道路沿いには様々な検問が用意されている。その度にパスポートをチェックされ、移動に時間がかかって仕方がなかった。しかし、ここまでしてもテロがなくならないのだから、パレスチナ問題が如何に根深いかがよくわかる。そんなことを考えさせられた国境越えだった。

 国境を越えるとそこはパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区と呼ばれる地域である。1967年の第三次中東戦争でイスラエルが占領して以来、イスラエルとパレスチナ暫定自治政府の間で、最終合意に至らず、紛争地域のまま現在に至っている地域である。

 この西岸地区では、ベツレヘムという都市を訪れた。イエス・キリストが生まれた町として知られるベツレヘム。しかし、現在はパレスチナ自治区の町となっており、イスラム教徒のパレスチナ人たちが暮らしているのである。

 町の中心には聖誕教会という教会がある。イエスが誕生したとされる飼葉桶の上に建てられた教会だ。『新約聖書』の「ルカによる福音書」に寄れば、住民登録のために夫ヨハネの先祖の土地・ベツレヘムを訪れていた聖母マリアが、この地で産気づき、イエスを出産したと記述されている。クリスチャンにとって、ここは聖地なのである。

 しかし、この聖誕教会もパレスチナ問題と無関係ではない。2002年にイスラム教過激派のテロリスト約200名が修道士たちを人質に立てこもった事件が発生し、世界中を震撼させた。この事件で、イスラエル軍(ユダヤ教徒)はテロリスト掃討作戦に出て、聖誕教会を攻撃。世界中のキリスト教徒から非難を浴びる結果となったのだ。ユダヤ、イスラム、キリストの3派が入り乱れての籠城事件は発生後1ヵ月で人質解放に至ったが、この地の宗教対立を象徴する事件であった。

 私が訪れたとき、聖誕教会は当時の混乱が嘘のように静かであった。早朝だったこともあるが、観光客はアメリカ人の老夫婦と私だけ。そして、その老夫婦は祭壇の前で熱心に祈りを捧げていたのである。三宗教の血で塗られた紛争の地、パレスチナ。その解決の糸口は一体どこにあると言うのだろうか?私も老夫婦の隣で静かに祈りを捧げてきた。

つづく
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2008年10月13日 (月)

不思議な浮遊体験

 ペトラからアンマンに戻り、翌日はペトラをご一緒させてもらった西口さんとタクシーをシェアして、死海へ出かけた。

 海抜マイナス410メートルという、都営大江戸線もビックリな標高に位置している死海。世界で一番低いというその場所は本当に別世界の空間であった。死海の特徴を一言で言えば、塩分濃度の高さである。ヨルダン川から流れ込んだ水は出口がない。死海より低い場所が存在しないからである。そして、その水は強烈な太陽によりどんどん蒸発され、塩分だけが湖に残ってゆく。それを何万年と繰り返されていくうちに25%というとんでもない塩分濃度になったのである。この濃度では生物は生きていくことができない。死海は文字通り「死の海」となっていったのである。

 しかし、このことは我々に素晴らしい「贈り物」を与えてくれた。塩分による浮力だ。ここでは、どんなに泳げない人でも沈むことがない。水に浮かびながらのんびり本や新聞を読むこともできるくらいなのである。そんな浮力を体験しに私は死海へ飛び込んでいった。

 死海に入った瞬間、強烈な痛みが足腰を襲った。あまりにも濃い塩分のため、かすり傷や毛穴などから体内に塩が染み込んで痛みを呼ぶのである。それでも少しばかり堪えているといくばくか慣れてくる。そして行動を開始した。死海の水深は深い。岸から少しばかり行くと急に深くなっている。そこまで行った瞬間、私は今まで体験したことのない状態になってしまった。足が宙に浮き、沈もうとしても沈めない状態になったのである。まるで空中を散歩しているような状態である。体が水面を滑るようにして浮いてしまうのだ。これが死海か、と思わず叫んでしまうほどの不思議な感覚であった。私はそのまま後ろに倒れてみた。ふわりと浮く。何の支えもなしに浮いているという感じであった。快適、快適。そのまま寝ながら流れに乗り、しばし快眠し、死海の浮力を思う存分堪能した。

 世界一低い場所にある死海。それは「自然」という芸術家が造った最高傑作なのであった。

つづく

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P.S アンマンでは「クリフホテル」という安宿に泊まった。帰国してわかったのだが、ここは日本でも度々テレビに登場したことがある宿であった。イラクへ向かい人質となって殺害されてしまった一人の日本人、香田証生さんがイラクへ行く前に最後に泊まった宿なのであった。宿には彼のイラク入りを最後まで止めさせようと努力したあのサーメル氏がいる。とても気さくな方で一緒に朝食を食べたりもしたのだが、そうとは知らずに、その話題に触れることはなかった。世間では「無知で無謀な若者」という批判を受けていた香田さん。「傷ついたイラクの子供たちを助けたい」という志を抱いて決断したという話も私は聞いたことがある。その辺の話を聞いておけばよかったと後悔している今日この頃である…。

2008年10月 7日 (火)

遊牧民たちの夢~ペトラ~

 ダマスカスから再びアンマンに戻り、翌日は朝早く起きてペトラ遺跡へ観光に出かけた。

 中東は「文明の十字路」と言われる。洋の東西を結ぶこの地域は古くから交通の要衝であった。そうしたことから中東にはかつて中継都市として栄えていた都市が点在している。ペトラもその一つである。インドからアラビア半島を横断して地中海に抜けるルート上に存在しているペトラは遊牧民たちのオアシスだったのである。2000年以上前、ナバタイ人たちによって築かれ、主にスパイス貿易の中心として発展していたペトラ。現在はヨルダンの観光に欠かせない名所となっている。そんなペトラを訪れた。

 ペトラの観光は、アンマンのバス乗り場で出会い意気投合した西口さんという会社員の方とご一緒させてもらった。西口さんも15と23日の祝日を繋げて旅行をされているようで、過去に行った旅先の話などで盛り上がった。

 アンマンからバスで3時間、ペトラに到着した。ペトラ遺跡はとにかく広い。入り口から約1.5キロの砂利道が続き、それが終わるとシークと呼ばれる細い道(狭い岩の裂け目)がさらに2キロほど続く。気温が高くて、汗もかき、喉が乾いて仕方がない。ラマダン中だと言うのに、ペットボトルの水をがぶ飲みせずにはいられなかった。

 そんな道をひたすら歩くこと1時間、突然視界が開け、エル・ハズネと呼ばれる霊廟が現れた。ここは『インディ・ジョーンズ~最後の聖戦』の舞台ともなった場所である。崖を削り、掘りぬいて作ったという外観は、すごいの一言。しかも、これが紀元25年に建築されたというから更に驚きである。高さ43メートル、幅30メートルという大きさと外観の迫力にただただ圧倒されてしまった。

 最大の見所はこのエル・ハズネだが、その先にもまだまだ見所はある。5000人が収容できるというローマ劇場、オベリスクの残る犠牲祭壇、遺跡の中央にある柱廊通りなどである。さらにそこから山道を2時間程歩いていくとエド・ディルに着く(暑さと疲労から限界寸前まで追い込まれていました…汗)。高さ45メートル、幅50メートルというエル・ハズネよりも少しばかり大きい神殿も見ごたえ十分であった。私はこの巨大な全景を前に何もせず1時間くらいたたずんでしまっていた(ただ疲れて動けなかっただけ…汗)。

 メソポタミア、フェニキア、エジプト、ギリシア、ローマ、ビザンチン、イスラム…。様々な文明の影響を受けながら独自の文化を育んできたペトラ。壮大な遺跡群は、遊牧民たちの激動の歴史を今に伝えている。
つづく
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2008年10月 5日 (日)

要衝の地シリア

 アンマンからダマスカスまではタクシーを利用した。アンマンのバスターミナルで偶然居合わせた日本人のカップルさんとシェアして行くことにしたのである。交渉の結果、ダマスカスまで50JD(ヨルダン・ディナール、1JD=170円)となった。アンマンとダマスカスの距離は120キロ以上。それが8500円。一人2800円で行けるというのだから驚きである。海外を旅行する度に驚かされるのだが、どうもこういう物価に慣れてしまい感覚が麻痺してしまう。日本の経済水準が如何に高いかが皮膚感覚でわかる瞬間だ。

 そうこうしているうちに、日も暮れ、ボーダーを越えた。この旅2ヵ国目、シリアである。首都はダマスカス、通貨はシリアン・パウンド(1SP=約2円)、政治はバース党一党独裁の社会主義国、宗教はイスラム教スンニ派、民族は70%がアラブ人という国である。

 シリア、この国ほど日本人に誤解されている国はないのではないだろうか?なぜか日本人のシリアに対するイメージはすこぶるよくない。私がこの旅に出発する前にも母親や会社の人たちから「大丈夫?」と声を掛けられたものである。シリアの人々は何も好戦的な国民性でもなく、シリアはテロリストの国家でもない。真実はむしろ逆で、治安も良く、ホスピタリティー溢れた国民性は特筆に値するほどである。私も旅しているときに、偶然立ち寄った店でパンケーキをご馳走してもらったり、迷っていたら観光スポットまで案内してもらったりと、あまりの親切さに涙が出そうになったことがたくさんあった(特に私の場合は前回の旅行がインドだったので…)。

 では、なぜこんな誤解がはびこるようになったのだろうか?答えは簡単である。日本のマスコミがアメリカの情報ピラミッドの下層に位置しているからである。残念ながら日本の報道はアメリカの影響を強く受けている。テレビや新聞の国際面はロイターやAP通信などの欧米の通信社から買ってきた情報をそのまま流しているだけのケースが多い。そのため、親米国家とは言えないシリアやイランに対しての報道も偏って日本に入ってくるのである。その情報を日々聞いている我々も知らず知らずのうちにアメリカ寄りになっているのである。それがよくわかる旅行でもあった。

 ダマスカスで一泊したあと、タクシーをシェアしたカップルさんと一緒にパルミラ遺跡に行った。パルミラは、「中東の3P」(シリアのパルミラ、ヨルダンのペトラ、イランのペルセポリス)と呼ばれる遺跡の一つで、シリアを代表する観光名所である。舞台は2世紀、パルミラはベドウィン達の隊商貿易の中心になった。シルクロードの拠点でもあり、東西の物産が集められ、栄華を極めていたのである。私は砂漠の中に突然現れた巨大な遺跡群に驚かされ、気の向くままにパルミラを歩き回った。気温は高いのだが、湿気はない。本当に爽快な気分になった。

 その後、ダマスカスに戻り、ウマイヤ・ド・モスクやスークなどを歩き回った。ダマスカスは8世紀にはウマイヤ朝の首都として栄えた町。イスラム世界の中心だったのである。その頃からの古い町並みを満喫した1日だった。

 古くから要衝の地として栄えたシリア。そこではホスピタリティ溢れる人々が今日も歴史の1ページを刻み続けているのである。

つづく

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2008年10月 1日 (水)

難民の町

 会社から夏休みを頂いて、ヨルダン、シリア、パレスチナ、イスラエルと中東の4つの国と地域を旅行してきた。今回から何回かに分けて連載していきたいと思う。

 ドーハを飛び立った飛行機は四時間程で、ヨルダンの首都アンマンに到着した。中東アラブ社会の中心都市として目覚しい発展を続ける都市アンマン。乾いた空気の中を疾走する車と町の喧騒は、活気溢れる大都会そのものである。しかし、この町がこんな大都会になったのはつい最近のことなのであった。20世紀初めまでアンマンは人口2万人程度のただの小さな町に過ぎなかった。アンマンの人口が激増したのは1948年から1967年にかけてである。隣のパレスチナで四度に渡って中東戦争が起こり、イスラエルに追われたパレスチナ人たちが大量に流入したのである。その数なんと180万人。さらにその後に起こった湾岸戦争でもイラクからの難民が約80万人押し寄せ、現在の人口260万人の大都会アンマンが完成したのである。

 アンマンを一言で表現すれば難民の町。不安定な周辺国をよそ目に、治安のよさから一種のシェルターとしての役割を果たしているのだ。そんな町の特徴を象徴する場所がワヒダット・キャンプと呼ばれる難民キャンプである。現在のヨルダンには170万人の登録パレスチナ難民がいるが、そのうちの16%にあたる28万人がこうした公認キャンプ住んでいる。ワヒダット・キャンプにも5万人が住み、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)による教育や保険医療サービスに頼っている。そんな難民キャンプも今や巨大なスークとなっていた。衣服や食料品、雑貨、食器、電化製品など様々な物を売る商人とそれを買う人々で溢れかえっている。特に色とりどりの野菜や乱暴に置かれた古着などの店の周りは常に活気で溢れていた。そんな喧騒の中を私は歩き回ったのだが、どことなく貧困の香りも感じ取れてしまった。彼らの中にはパレスチナへの帰還を望み、居たたまれない思いで商売をしている人も多いという。戦争で家族をなくした人もいる。そんな背景があるにも関わらず、ここでこうして懸命に商売をやっている。そんなことを考えさせられてしまった。

 アンマンには他にも見所は多い。私はマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の命で造られたアンマン城、死海文書が展示されている考古学博物館、ヨルダン最大規模を誇るローマ劇場、町の中心にあるキング・フセインモスクなどを見て回った。

 アンマン。それは古代から続く歴史ある町の中で、難民たちが懸命に暮らしている、そんな大都会なのであった。

つづく
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