映画鑑賞記
今月初めに、2本の映画を見た。今日はその感想文を書いていきたい。 まずは『ひゃくはち』という映画。この映画は甲子園の常連校の控え部員にスポットライトを当てた映画である。主人公の二人はベンチ入り当落線ギリギリの選手。その二人の日々の葛藤を見事に描いた作品であった。自分の練習を取るか、チームへの貢献を取るか?レギュラーと控えの意見の違い、確執、あいつがケガすれば出れるのにと思う気持ち、それでも最後は勝ちたい、笑って終わりたいと思う気持ち、支えてくれた仲間への感謝…。私もずっと控え部員だったので、これらの気持ちは痛いくらいわかる。最後は思わず涙を流してしまったほどであった。
ヒーローを求め、控え部員が黙殺されるこの時代。エースや天才打者を題材にしたドラマなら腐るほどあるが(…というか、見る気にもならない…)、よくこんな映画が世に出たなと思って本当に感心してしまった。
そんなときパンフレットにあった森義隆監督のプロフィールを見ていたら納得した。なんと森監督も元高校野球の控え部員だったのだ。パンフレットに寄ればこの作品を作ったきっかけは2年前の夏の甲子園の早実の斎藤佑樹君インタビューにあったようだ。斎藤君が「ベンチに入れなかった仲間への感謝」を語った次の日の新聞の見出しが、「ハンカチ王子は仲間も思いやれる優等生」と書いてあったことに憤りを感じたことがきっかけだったようである。世の人は彼の発言の裏にあるもっと重いものを理解していない。死ぬような思いでやってきたのにも関わらず、ケガや構想外などの理由で戦線離脱していった同級生。そんな同級生が最後はチームの勝利のために懸命に自分たちレギュラーメンバーを支えてくれた。そうした同級生を見て自然と語った言葉であるはずだ。どうも高校野球は誤解されている。それが原点であった。
レギュラーばかりが注目されがちなスポーツ界。しかし、控え部員の方が余程たくさんのドラマがあるのである。彼らの一球一打に生死をかけた戦いに私は拍手を送り続けていきたいと思う。
続いて『ラストゲーム』。こちらは我が慶大野球部の先輩たちが1943年10月16日に早大・戸塚球場で行なった伝説の一戦を題材にした映画である。舞台は大東亜戦争中の1943年。野球は「敵国のスポーツ」とされ、軍部に弾圧されるようになっていた。4月には文部省が東京六大学野球連盟に解散を命じ、5月20日には慶早戦も中止になる。神宮球場も使用不可能となり、野球をやること自体が困難になっていた。そんな最中の9月21日、東条英機内閣は学徒出陣令を出した。戦場に行けば生きて帰れない。当時の塾長であった小泉信三先生は「せめて彼らに生きた証を残してやりたい」と考え、慶早戦を強行開催する案を提案したのである。しかし、この案に早稲田の田中穂積総長が反対。軍部の目を気にしていたのと、「こんな非常時に野球どころではない」というのが理由だった。早大側の返事を聞いて、塾野球部の選手たちは、悲しみに暮れた。そして、最期の一時を家族と過ごしたいと帰郷していったのである。そんなときに電報が届いた。早大野球部の飛田穂洲顧問が強行開催に踏み切ったのであった。飛田先生は、大学当局の反対をも押し切って開催に尽力されていたのであった。試合は練習不足の慶応が早稲田に完敗。しかし、両校の選手は達成感で溢れていたそうである。そして、「次は戦場で会おう」、その言葉を最後に出陣。中には特攻隊で散っていった者もいたのであった。
私はこのエピソードを入部と同時に前島部長や鬼嶋監督から聞かされ続けていた。慶早戦。毎年3万人近くの観客を集め、世界三大学生対抗戦の一つにも数えられている(オックスフォードとケンブリッジのボート、ハーバードとエールのアメフト、慶應義塾と早稲田の野球)。大学日本一を決める試合でも何でもない慶應義塾と早稲田の対抗戦がなぜここまでの試合になったのかがよくわかるエピソードである。先輩たちが懸命に築き上げてきた土俵だからこそ慶應義塾は輝き、またこれからも輝き続けていくのである。こんな歴史と伝統のある環境で野球をやらせてもらったことに感謝し、そのことに誇りを感じた瞬間であった。今後も慶應義塾の塾員らしく生きていきたい。








