« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月26日 (土)

二流の超一流

 先日、NHKの「プロフェッショナル」という番組でヤクルトスワローズの宮本慎也選手の特集をやっていた。ヤクルトだけではなく北京五輪日本代表主将、プロ野球選手会会長など抜群のリーダーシップを発揮している宮本選手。そのリーダーシップはどこから来たのか。私は大変興味があったので、この番組を見させてもらった。

 PL学園、同志社大学、プリンスホテルとアマチュア野球のエリート街道をひた走っていた宮本選手。しかし、プロに入ってからは泣かず飛ばずの状態が続いていた。もともとずば抜けた素質や体格に恵まれた選手ではない。まわりからは「守備だけの人」、「リトルリーグ」などと言われて、大変な悔しい思いをしていたという。

 そんなときに野村克也監督から言われた一言の薫陶が宮本選手の考え方を180度変えたという。「二流の超一流になりなさい」 という言葉である。誰もが主役になれるわけではない。主役が活躍するには最高の脇役が必要なんだ、ということである。この言葉で宮本選手の野球観は180度変わった。ホームランバッターとエースだけでは野球は成り立たない。チームが勝つためには最高の脇役が必要なんだということを身をもって知った。リトルリーグでも守備の人でもいいじゃないか。「自分が生きる道はこれだ」と確信したそうである。そして、チームの勝利のために、最高の脇役になろうと心に決めたそうだ。

 元々、一本気な宮本選手。やると決めた以上は徹底していた。特に印象深いのはWBCのときに試合開始直前まで30分間も黙々とレギュラー選手の打撃投手をやっていたことだ。国際大会では裏方として派遣できるスタッフが限られている。控えの宮本選手は、そういうことをよく理解し、自分のアップもそこそこにチームのためにやっていたのである。

 最高の脇役になる。二流の超一流。世の中にはいろいろな役回りがある。そのすべてがなければ世の中は機能しない。教訓としておきたい。

2008年7月17日 (木)

カルカッタとチャンドラ・ボースの志

001 002 003 004 005 006  13時過ぎに列車はカルカッタのハウラー駅に到着した。

 4580万人もの人口を抱える大都会カルカッタ。その歴史はイギリスとともにあった。17世紀までカルカッタはただの寒村にすぎなかった。ここが飛躍的に発展するのは、イギリスがここにやってきてからである。イギリスは、ガンジス河を重要な輸送路として考えていた。その河口にあたるカルカッタはどうしても外せない場所だったのである。以来、カルカッタは綿や絹織物、藍などの取引の中心地になり、世界的な港として発展していく。そして、転機が訪れる。1757年にプラッシーの戦いでイギリスがベンガル太守に勝ったのである。この勝利によってイギリスの目的は「貿易」から「統治」へと移っていった。それと共にカルカッタもイギリスのインド支配の拠点となって行ったのである。1857年のセポイの乱の後、イギリスはインドを完全に植民地化。カルカッタにはザミンダール制(インド人の地主を特権階級にし、間接的に統治する体制。ザミンダールになった者は英国留学や医師や法律家として英国統治を支えた。)という独特な支配体制を作り、植民地支配を強化していったのである。

 そんな植民地体制の中、ここカルカッタから一人の愛国者が世に送り出される。チャンドラ・ボースである。カルカッタと言えばなんと言っても有名なのが、このチャンドラ・ボースだ。インドの独立を求めるために、手段を問わずに奮闘したチャンドラ・ボース。ソ連やイタリアやドイツに協力を要請し続けるが、すべて断られていた。ヒトラーには「インドが独立するには150年早い」と屈辱的な言葉まで言われてしまう。そんなとき手を差し伸べたのが日本だった。大東亜戦争の最中、インドに攻め込めばイギリスのインド支配が崩壊すると考えた日本はボースと手を組みインパール作戦を敢行したのである。しかし、周知のとおりインパール作戦は敗北に終わる。それと共にボース率いるインド国民軍も壊滅したのである。ボースは日本軍に対して最後の一兵まで戦うことを主張。しかし、その奮闘も虚しくついになんらなすことなく終わったのである。その後も冷戦を利用し、イギリスと敵対したソ連を利用しようとしたが、飛行機の墜落事故によって、インド独立を見る前にこの世を去った。ボースはそんな愛国の士であった。

 カルカッタにはネタージ・バワンというボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅があり、現在はチャンドラ・ボースの記念館となっている。私はここを訪れた。2007年に安倍前首相が訪問し、日本でも有名になったネタージ・バワン。中には明治神宮を参拝したときの写真や東條英機首相とのツーショット、等日本と関係の深いものが並んでいた。どんな苦境になっても国を思い、堂々とインドの大義を主張したチャンドラ・ボース。その志を体感した瞬間だった。

 ネタージ・バワンを見たあとはセントポール寺院やビクトリア記念館、マザーテレサの家などを見て、カルカッタを跡にした。

 これで、6日間のインドの旅は終わり。この国に来たときは、二度と来るもんかと思っていたが、なぜかおもしろさを感じるようになっていた。世の中には好んでインドに行く人もたくさんいる。その気持ちもわかるような気がしてきた。ひどい目にあっても、お金を巻き上げられても、生活習慣が全く違い戸惑っても、また来たくなってしまう。インドはそんな不思議な魅力を持っている国なのかもしれない。また来てしまいそうである。



P.S マラッカ海峡を帰りの飛行機で上空から見た。巨大なタンカーが行き来している光景を見て、これが日本のシーレーンかと興奮してしまった。エネルギー資源の安定供給へのモチベーションが湧いてきた瞬間だった。

2008年7月15日 (火)

バラナシ駅にて

002 003 005  マニカルニーカーガートの一件以来、極度の金欠になってしまった私は、ここで当初立ていた計画を再度立て直す必要に迫られた。具体的に言うと、このあとブッダガヤに行こうと思っていたのだが、行けなくなってしまったのである。ブッダガヤは是非とも行ってみたい土地だった。ブッダガヤは、仏陀が覚りを開いた場所。私は仏教にも興味があるので行ってみたい場所だったのである。

 しかし、こうなった以上は仕方がない。鉄道でバラナシからカルカッタまで直接行くことを決意したのである。バラナシからカルカッタまでは夜行で一泊の距離。宿代を浮かすこともできるし、便利な交通手段だった。

 しかし、ここでも一泡吹かせられることになった。列車が来ないのである。バラナシ15時40分発の列車を待っていたのだが、いくら待っても来ないのである。2、3時間の遅れなら、インドでは当たり前で、不思議でも何でもない。しかし、4時間を越えるとなると、さすがにどうしたのか私も心配になってきた。アグラの駅でもそうだったのだが、インドの駅には英語の案内板がない。すべてヒンドゥー語で書かれているのである。このため私は情報さえ入手できないでいたのである。これは参った。本当に列車が来ないのかもしれない。そう思うと不安で不安で堪らなくなってきた。そして、私は藁をもすがる思いで、隣にいたインド人に聞いたのである。「なんで列車が来ないのか?」。するとインド人はこう答えた。「10ルピー」、と。私は意味がわからなかった。列車が来ないのが10ルピー?なんだそれは?もう一回聞き返してみる。「なんで列車が来ないんだ?」、するとインド人は再び「10ルピー」と言う。これでようやく理解ができた。彼は情報をやるから、代わりに10ルピーよこせと言っているのであった。なるほど、不親切にも程というものがある。列車が来ない苛立ちとインド人の態度がプラスされ、不快指数MAXで列車を待つことになった(苦笑)。

 結局、列車は約8時間遅れの23時過ぎにやってきた。車内で車掌さんに聞いたところ上流でスコールがあり、そのために遅れたそうだった。雨季のインドである。私もここまで何度もスコールを体験したが、10メートル先も見えないくらいの雨が一日に何回か降る。そうしたら2~3時間はその状態だ。スコールでダイヤが乱れることも多いのかもしれない。

 とにかく列車に乗ることができた。日中の暑さと列車が来ない苛立ちでかなりの神経を使ってしまった。列車の中では、横になったとたんに眠ってしまった。そんなカルカッタまでの道のりだった。

つづく

2008年7月14日 (月)

聖地バラナシと散々な体験

001 002 005 006 007 006_2  列車は4時間程遅れてバラナシの駅に着いた。外は狂ったように暑い。温度計は48度を指していたが、人々の熱気でそれ以上にさえ感じた。とにかくものすごい暑さである。Tシャツが汗で色が変わるくらいだった。私は列車の中で仲良くなった韓国人のバックパッカーに別れを告げ、早速バラナシの観光を始めることにした。

 バラナシはインド人にとって聖地である。町の中心を流れるガンジス河(ガンガー)はインド人にとって聖なる河。ヒンドゥー教では、ここで沐浴した人はすべての罪が浄められ、ここで死に、遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱が得られると信じられているためである。この町には年間100万人の巡礼者が訪れ、沐浴しているのである。

 バラナシの町はおびただしい人々であふれていた。屋台やリキシャの勧誘、物乞いたちを振り払いながら歩かざるを得ない。車もクラクションを鳴らしながら全速力で走るので、ヒヤヒヤしながら歩いていった。時折、その間を縫うように運ばれていく死体。火葬場で灰にしてガンガーに流すのだろう。バラナシならではの光景である。そのような町を歩いていった。

 ホテルにチェックインしたあと、私は早速ガンガーへ行った。河づたいの道がないので、狭い路地をひたすら歩いて行く。すると目の前にガンガーが広がってきた。雨季のために河は増水し、向こう岸が見えないほどになっている。これぞ大河といった光景である。岸辺に目を移せば、沐浴をしている人でにぎわっている。水浴びをする人、体を洗っている人、服を着たまま浸かりなにやら瞑想している人、水遊びをしている子供たち…。そこはインド人の生活の場、そのものだった。

 ガートからは観光客を相手にしたボートも出ている。ガンガーの光景を見るなら、このボートに乗ることが一番(ただし、ここでも値段の交渉を真剣にやらないととんでもないことになる…)。岸辺から見るより遥かに様々な光景が見え、一望できた。

 翌日、私は朝イチでガンガーへ向かった。マニカルニカーガート(火葬場)を見るためである。この周辺も物乞いたちであふれている。しかし、ここの物乞いたちは今までの物乞いたちとは少し様子が違う。元気がないのである。「金をくれ」とも手を捕んだりもしない。黙って手を差し出すだけなのである。ドキッとした瞬間だった(もちろん金はやらないが…汗)。人間の生について考えさせられたのである。彼らは死ぬまでこうしてここで物乞いを続け、何もせずにひっそり死んでいくのだろう。そして、ガンガーに流されるのを幸せと思っている…。一体人間の一生とは何なんだろうと考えさせられた瞬間だった。

 マニカルニカーガートの煙は途絶えることがない。常に死体が焼かれ、灰になり、それをそのままガンガーに流しているのである。私が行ったときは若い女性の死体が焼かれているときだった。家族が見守り長時間かけてゆっくりと焼いていた。インドは生があからさまであると同時に、死もあからさまである。その光景の一部始終を見た。

 私は、このマニカルニカーガートで、とんでもない体験をすることになる。すべては、マニカルニーカーガートいた一人の男に声をかけられたのが始まりだった。その男は、マザー・テレサに影響されてこの地で死を前にした物乞いたちに最後の奉仕活動をしているという男だった。いろいろ話をしているうちに、火葬場の薪代が足りなくて本当に困っているということだった。世の中には、こんな敬虔な人がいるものだ。私はそう思い、財布にあった10ルピー札を一枚その男に渡したのである。これがすべての間違いだった。その男はそれだけでは満足せずに、さらに金を要求してくるのである。「死体を一人焼くだけでも10ドルの薪が必要だ。10ルピーでは話にならない」と言うのであった。私は「気持ちはわかるが、金を持っていない」と言って、その場を跡にしようとした。しかし、その男も執拗に食い下がる。「金を払ってくれ」、と。私も「申し訳ないが、これしか払えない」と何度も断った。そんな討論をすること10分、私がいい加減に帰ろうとしたその時である。その男が「マネー」と言ってキレ、私の腕を掴んできたのである。この行動に私は完全にカチンと来てしまった。なんでお金を貰う方が態度がでかいのか。しかも私の腕を掴み脅迫までするのである。堪らず私はキレ返したのである。相手の胸ぐらを掴み、壁に2、3度打ち付けた。するとたちまち、私はその場にいた彼の仲間らしき4、5人の男たちに取り押さえられとしまった。そして、財布をもぎ取られ、中にあったお金をすべて取られてしまったのである。ご丁寧に日本の一万円札まで取られてしまっていた。そして、最後に財布の中のクレジットカードを返されて、「これでATMに行っておろして来い」と言われた。屈辱的な瞬間だった。その後は、いくらキレても抵抗しても、お金は戻らず。めでたく一文無しになってしまったのである。バックパックの中にいくらかは残しておいたものの、さらに貧乏旅行を強いられることになってしまった…(涙)。

 そんなこんなで、バラナシの観光は終了。今後が思いやられる一日だった。
 
つづく

サミット総括

 北海道洞爺湖サミットが閉幕した。今回、日本は議長国。中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカなど8ヵ国を招待し、盛大に開催された。しかし、その成果は?となると疑問を持たざるをえない。

 今回の最大の議題となったのは温室効果ガスの削減の問題。全体会合では、「世界全体の長期目標を採択することが望ましい」とうたい、途上国側も一定の理解を示したようである。しかし、具体的な数値を示すことなく先送り。大きな前進はなかった。

 その他、原油高騰や食糧問題も大きなテーマであった。しかし、このテーマも投機規制などで先進国側が二の足を踏み、何も決議されることなく先送りされた。

 今回の開催地は北海道。ということは、当然北海道の一部である北方領土の問題を協議していいはずだ。返還要求するにはこれ以上の好機はない。しかし、G8の首脳が一堂に会する全体会議では協議されず、日露首脳会談でも「首脳レベルを含めた交渉を誠実に行い、最終的解決へ前進させる」という文言に留まった。1945年8月9日な日ソ中立条約の一方的破棄と参戦、60年以上の不法占拠を許していいはずがない。なぜ議題にしないのか。

 北朝鮮の問題に関しても成果をあげられなかった。日本は一貫して「核、拉致、ミサイル」を三位一体の問題として主張してきた。拉致や核に関して強く要請したようだが、ミサイルに関してはミの字も出ていない。これはどういうことか説明してもらいたいくらいである。

 サミットは社交の場ではない。日本舞踊やおいしい食事をとるのもいいが、国益を懸けて闘う外交の舞台だということを理解してほしいものである。ただの参加国ではなく、議長国として参加した今回のサミット。もう少しリーダーシップを発揮してほしいものだ。これでは500億円の税金の無駄遣いと言われても仕方がない。

2008年7月13日 (日)

タージ・マハルとアグラの一日

001 002 003 004  朝、強烈な太陽の光で私は目を覚めた。バスは冷房がいくらかは効いていたが、外はものすごい暑さなのであろう。とにかくものすごい太陽光である。真夏の日差しそのものであった。デリーから出発したバスはすでにアグラに程近いところを走っている。私は眠い目をこすりながら、ガラス越しに町の光景を眺めてみた。と、私は一瞬にしてものすごい光景を目にすることになった。道行く人の群れ、町中にちらかるゴミ、それに群がる大量のハエ、路上に溢れる物乞いたち、クラクションを鳴らしながら全速力で走る車、道路の真ん中を悠然と歩く牛…。これがインドか、という光景だった。思わず声を出してしまうほどの光景だった。

 アグラに着き、早速インドへの適応能力を試される場面が訪れた。トイレである。そう、インドのトイレには紙がない。紙の代わりに置いてあるのはコップ。便器の右脇にあるこの小さなコップを使って、水を汲み、右手で器用にお尻に水をかけ、左手で直にお尻を触り、拭き取るのである。よって、インドでは左手は不浄の手として忌み嫌われている(当たり前だ…)。これがはじめはどうしても出来なかった。日本からトイレットペーパーを持っていかなかったことを後悔しながら旅を進めていくことになった(最後の方では楽勝でできるようになったが…汗)。

 アグラと言えば、何と言ってもタージ・マハル。ここを見ずしてアグラの観光は始まらない。ムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが22年の歳月を費やして愛する王妃ムムターズ・マハルのために建てた世界一豪華な墓、タージ・マハル。外壁はすべて白大理石で建てられ、中には世界各地から集められた膨大な量の貴石が散りばめられている。また装飾も見事であり、国力と天文学的な費用をかけて職人を集めて建築した。1653年についにこの墓は完成した。しかし、この墓を造るがためにムガル帝国の財政は傾き、瀕死の状態になった。これにも関わらずシャー・ジャハーンはヤムナー河の対岸に自分の墓を黒大理石で造る計画を立てた。これでは国は持たない。シャー・ジャハーンは息子アウグラングゼーブに遂に幽閉され、死後はタージ・マハル内の妃の横に葬られることになったのである。そんなタージ・マハルを訪れた。

 インド人20ルピー、外国人960ルピーという入場料(48倍はぼったくりすぎだろ!!)と必要以上の荷物検査に少々苛立ちながら入場し、正門をくぐると堂々たる外観のタージ・マハルが見えてきた。この外観は見事という以外にない。財力が底をついたというのも納得の造りであった。あまりの迫力に圧倒され、美しさに酔ってしまった一時であった。

 タージ・マハルを出たあと、私はお土産屋に行った。母にサリー(インドの民族衣裳)を買おうとして入ったのだが、ここでもインド人の金への執着心を見せられることになった。サリーだけを買おうとしたのだが、他の商品も薦めてくる、薦めてくる。いらないと何度断ってもしつこく誘われるのである。一度入ると簡単には店を出してもらえない。挙げ句の果てには、出してもらいたかったら金を置いていけとまで言われる始末。当然のごとく怒り狂って店を出たのだが、この国はまともに買い物もさせてもらえないのか、と本当に困ってしまった。

 そんなこんなでアグラの観光は終了。アグラフォート駅から深夜の鉄道に乗り(三時間遅れてやっときた…)、一路バラナシに向かった。

つづく

2008年7月 6日 (日)

いざインドへ

001 002 003  6月末にインドに行ってきた。今回から数回に渡って書いていきたい。

 インド行きを決めたのは急だった。6月末に4連休があった。全国転勤のある会社(一部海外も…)なので配属前の引っ越しをするために与えられた休日である。しかし、私が配属されたのは東京。引っ越しの必要はなかったのである。土日も含めて6日間、家でゴロゴロしているのはもったいなさすぎる。そこで急遽インド行きを決めたのである。

 今回はシンガポール航空を利用させてもらった。料金的に高く(エア・インディアなら7万~のところをシンガポール航空は11万~)、しかもシンガポールを経由しなければならないので、できれば回避したかったのだが、エア・インディアは遅延や欠航の常習犯。これが悩みの種だった。学生時代なら間違いなくエア・インディアを利用していたところだが、時間に縛られる社会人になった以上、スケジュール通りいってくれないと困る(…というか、配属初日に欠勤はありえない…汗)。そこで、今回はシンガポール航空を利用させてもらった(サービスは最高!)。そんな経緯で旅行を始めた。

 インドには3つの季節があると言う。「ホット、ホッター、ホッテスト」だ(笑)。22時過ぎにも関わらず、デリーのインディラ・ガンディー空港の温度計は40度を指していた。飛行機を降りた瞬間から、経験したことのない思わずうなるような暑さであった。立っているだけで汗が吹き出てくる。日中はこれ以上になるのかと思うとこの先、本当に気が重かった。

 インドは日本人が旅行する上で本当にハードルが高い国である。トラブルが後を断たないのだ。『地球の歩き方』というガイドブックのトラブル特集は大抵の国の場合、巻末に掲載されている。しかし、インドだけは違う。巻頭にカラーで、しかも一冊の半分近くのページを割いて書いているのである。インドが如何にトラブルが後を断たないかをよく表している。さらに、そのトラブルも悪質なものが多い。どうもインド人のあいだでは「日本人=カモ」という認識が浸透しているようで、ビックリするようなトラブルが後を断たないのである。『地球の歩き方』にも、タクシーで目的地には行かず地図にない場所に連れていかれて金を要求される、喫茶店や食堂で睡眠薬を入れられて起きたら財布がなくなっている、旅行会社とタクシーとホテルがグルになっていて高額な金額を要求してくる…等々。こんな被害がたくさん載っていた。

 これはすごい国だと思ってはいたが、私もその例外ではなかった。バッゲージクレイムに時間がかかり、空港を出たのは23時過ぎ。時刻表のない空港前のバス乗り場で1時間程バスを待ったが、バスはとうとうやって来なかった。仕方なくタクシーで市内に行くことにした。『地球の歩き方』に寄れば、空港前のタクシーはトラブルだらけなので出来れば乗りたくなかったのだが、バスが来ない以上仕方がない。私はタクシーで市内に行くことにした。これがすべての始まりだった…。

 夜遅かったので、とりあえず安宿街のコンノート・プレイスを目指すことにした。タクシーの運転手と長い長い交渉の末、2ドルで行かせてもらうことになる。しかし、このタクシー、なんと空港から10キロ程行ったところでガス欠になってしまったのである。見ず知らずの国の地図にも載ってない場所に一人放たれてしまったのだ(これ相当怖かったです…)。

 私は途方に暮れてしまった。すでに時計は24時半を回っている。私はしばらくその場で立ち尽くす以外に方法はなかった。車は通るのだが、なかなかタクシーが来ない。そうこうしているうちに時間は刻々と過ぎていく。ここに一泊するかと覚悟した瞬間、一台のオートリクシャが私の前に止まった。なんと幸運なのだろう。私は藁をも掴む思いで乗り込んでしまった。しかし、このオートリクシャもとんだ食わせ者だった。コンノート・プレイスと私が何度も言っているのに、着いた先は旅行会社。これは『地球の歩き方』に載っている典型的なトラブルの例である。このまま降りてしまうと法外な価格のツアーに強制的に入らせられるのが落ち。私はタクシーの運転手にぶちギレて一銭も払わず逃げた。

 インドを訪れて4時間。ようやくこの国の実態がわかってきた。考えていた程甘くはなかったのである。頼れるものは自分自身だけしかいないということにようやく気が付いたのである。

 ここで到着前に立てていた計画を変更した。デリーで一泊せずに、このままアグラへ向かうことにしたのである。理由は三点ある。時計はすでに3時。このまま深夜のバスに乗ってしまえばホテル代を浮かすことができるということ。これが一点。二点目は、デリーはインドの玄関口であるため、デリー観光は次回でもできるのではないかと考えたこと。そして最後に、ここまでの過程でデリーに辟易していたことである。そんなこんなでアグラに行くことを決め、バスターミナルまでの5キロ少々の道を重い荷物を背負い、物乞いたちを振り払いながら、汗だくで歩き、深夜バスに乗り込んでさっさとデリーを後にした。

 そんな散々なデリーの一夜であった。

つづく

※写真はバラナシ。

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »