2009年9月17日 (木)

都市対抗観戦記

 ホンダの13年ぶり2回目の優勝に終わった都市対抗野球。私も8月22日、23日の土曜、日曜に都市対抗野球を見に行ってきた。少し遅くなってしまったが、今日はその観戦記を書いていきたい。

 22日は仙台市代表で慶大野球部の1学年下の青池と佐藤翔の所属するJR東日本東北と、今シーズン限りで廃部の決まった横須賀市代表の日産自動車の対戦を見た。両チームの先発は猪原と石田。佐藤翔は4番指名打者での出場だった。1対1で迎えた五回裏、日産が1死三塁から北村のスクイズで勝ち越し、この1点を守りきって勝利した。佐藤翔は天井にあたるかという高いフライをライトが目測を誤る幸運なヒット一本。青池は8回から守備固めで出場。守備機会はなかったが、二人とも元気な姿を見せてくれた。

 23日は豊田市代表で同期の中根が補強選手として出場しているトヨタ自動車と、高知市代表の四国銀行の一戦。6回までトヨタ先発の大谷と四銀先発東出の互いに二塁をも踏ませない緊迫した投手戦となった。試合が動いたのは7回裏。青山ライト前、田中レフト前、的場死球、佐野左中間でトヨタが3点を先制。このリードを守り切り、トヨタが3対1で四国銀行を下した。中根の登板こそ見れなかったが、好ゲームに久しぶりに興奮した一戦であった。

 久しぶりの野球観戦。満喫させてもらった。
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2009年7月30日 (木)

おめでとう、後輩たち!

 我が母校、聖望学園が6年ぶり3回目、春夏通算では4回目の甲子園出場を決めた。後輩たちに心からおめでとうと言いたい。

 今年のチームは本当に絵に描いたような鉄壁の守備のチームだった。スター選手はいない。しかし、どん底から苦しみ抜いて全員で勝ちとった勝利と言えるだろう。

 今年は初戦から毎試合厳しい戦いを余儀なくされた。1回戦から強豪の昌平と対戦。好投手加治を責め倦ね、終盤追い上げられる苦しい試合。1点差で勝利すると、5回戦で待ち受けていたのは春の関東王者で夏は4連覇のかかる浦和学院だった。この試合も手に汗握る好ゲーム。最後は守備力が物を言い、4対3で大金星をあげる。続く準々決勝、準決勝も本庄第一と春日部東を相手に1点差での辛勝だった。

 そして、今日。決勝の相手は埼玉栄である。両校の先発は聖望学園がエース左腕の佐藤、埼玉栄が右腕の島野。先制したのは聖望学園だった。2回裏、城戸の四球と西村のセンター前で無死一塁三塁。ここで投手が痛恨のボーク。聖望が幸運な形で先制する。さらに小島のセンター前と併殺崩れで2点追加。3点を先制した。終盤追い上げられる場面もあったが、今年は守備力が本当に素晴らしいチームであった。1回2死からのライト片岡の好返球、5回にはセンター本所が落ちれば2点という打球をスライディングキャッチ、7回表1死1塁の場面ではショート西村が飛び込みながらセカンドにトスし併殺を取るというビッグプレーをした。日々の練習で鍛えたプレーがここぞという場面で出た。本当に素晴らしい後輩たちである。3対2で聖望学園が勝利、甲子園出場を決めた。

 本当に苦しみ抜いてつかんだ勝利だ。昨秋も今春も共に三回戦敗退。なかなか勝てなかった今年のチームが苦しみ抜いてついに勝ち取った栄冠。さあ、次は甲子園。全員一丸となって戦いに挑んでほしい。

2009年7月28日 (火)

お詫び

 母の急死に伴い、この日記を長らく休止しておりました。お詫びを申し上げます。日々の生活も落ち着いて参りましたので、再開致したく思います。引き続きご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

2009年3月15日 (日)

スポニチ大会

 今日は朝早く起きて、神宮球場で行なわれている社会人野球のスポニチ大会に行ってきた。第一試合は大学の同期の金森と岡崎のいるJFE東日本対JR東日本、第二試合は同期の渡邊と2学年下の今福のいる明治安田生命と2つ上の池辺さんと1つ下の宮田のいる新日本石油ENEOSの対戦だった。4チームの監督はJFE東日本が蔵元監督、JR東日本が堀井監督、新日本石油ENEOSが大久保監督、明治安田生命が竹内監督といずれも塾野球部出身。慶應関係者にとってはたまらない1日である。そのためネット裏には関係者がズラリ。挨拶まわりが大変だった(笑)。また、高校の後輩のJFE東日本の前川、新日本石油ENEOSの大塚も気になる。とにかく見所満載の試合だった。

 第一試合は9時にプレイボール。金森が6番センターでスタメン出場。金森の結果はセンターフライ、レフトフライ、四球だった。明日の固め打ちを期待したい(仕事だがパソコンでチェックします!)。岡崎は7回1死満塁という場面で、その金森に代打で出場。三振をするも捕手のパスボールを誘い1点の場面を作った。試合は4対2でJFE東日本が勝利。準決勝へと駒を進めた。

 第二試合は新日本石油ENEOSと明治安田生命。池辺さんが2番指名打者で、今福が6番指名打者でスタメン出場だった。初回ENEOSは、センター前ヒットで出塁した池辺さんを2塁に置き、4番の磯部がレフトスタンド中段まで飛ばすホームランで先制。2回にも1点を追加し、一方的な試合かと思われた。しかし、2回には今福が右中間を真っ二つに破る2ベースヒット(今福はこのあと内野安打も打ち2安打)。これから明治安田生命の反撃が始まる。荒川のライトスタンドに突き刺さるソロホームランと相原のタイムリーで1点差まで詰め寄ると6回裏に7番本田のタイムリーで遂に同点。試合を振り出しに戻した。明治安田生命の粘りは天晴れ!しかし、地力で優るENEOSは7回、池辺さんのレフトオーバー2ベース(その後代走宮田)を皮切りに2点を奪い、明治安田生命を突き放した。9回裏に明治安田生命は三番手大川と4番手廣瀬を攻め、1打同点のチャンスを作る。しかし、代打で出場した渡邊が三振、続いて登板した大塚の前に屈した。今日の大塚は打者一人に対して145キロストレート、149キロストレート、ストレート計測なし、148キロストレート、136ストレートという内容。スタンドをどよめかせるピッチングだった。5対3でENEOSが勝利。準決勝はJFE東日本対新日本石油ENEOSの対戦となった。

 野球シーズンが開幕した。自分と関わった選手の応援は本当に楽しい。次は都市対抗予選。全力で応援します(笑)。

P.S もう一つの感想。試合後大塚と話しました。岡本監督も表コーチもだいぶ丸くなったんですねぇ…ビックリです(笑)。
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2009年3月11日 (水)

浜松にて 前編 ~ビルマゆかりの碑~

 先日浜松に出張があり、せっかくなので週末を浜松で過ごした。目的はビルマの記念碑を見るためである。この記念碑は私が以前参加した講演会の際に、著書『拒否できない日本』で有名な関岡英之さんがおっしゃっていた記念碑である。浜松は、ビルマ建国の父として仰がれるアウンサン将軍(スーチーさんのお父さん)と日本陸軍の鈴木敬司少将がビルマ独立の作戦を練った場所である。その記念碑が大草山にあると言う。そこで大草山に登って、その記念碑を一目見ようと思い立ったのである。

 私は浜松駅からバスで大草山に向かった。ちょうど館山寺温泉という温泉街になっていて、遊園地や浜名湖の遊覧船の乗り場のある大変なにぎわいの一帯だった。麓からはロープウェイで山頂まで行ける。しかし、この日はあいにく強風のためロープウェイが運行休止になっていた。麓で聞いてみると、オルゴール館にも立ち寄るなら無料で山頂まで車で送迎するとのこと。そこで、その言葉に甘え、オルゴール館にも立ち寄ることにした。

 麓から車で15分程で山頂に着いた。まずはオルゴール館を見て回った。ここには19世紀から20世紀中葉までの世界中のオルゴールが展示されていて、その歴史や音色を楽しませてもらった。さらにその屋上の展望台からは浜名湖も一望できる。遠くに広がる遠州灘、西側には湖西連峰が連なっている。風は強かったが、天気は快晴。心地よい春の日である。大変爽快な気分だった。

 そのオルゴール館のすぐ側にビルマの記念碑はあった。碑の文章はビルマ方面で亡くなられた方々の慰霊と日緬友好を誓うという内容だった。参考までに下記に載せておきたい。

 「ロスト・コーズ」という言葉がある。日本語では「敗れた大義」と訳す。元々は白人と戦って滅んでいったアメリカのインディアンの酋長の主張のことを指す言葉なのだが、ここで述べるのはそれに限ったことではない。歴史は常に勝者によって語られる。それを受けた後世の人々は、そこに正義があるような錯覚を感じてしまいがちだ。しかし、私は「ロスト・コーズ」を忘れるべきではないと思っている。敗者にも敗者の大義がある。楠木正成も真田幸村も西郷隆盛も諸葛孔明も鄭成功もチベット民族も「ロスト・コーズ」に殉じていった。そこにあった大義は抹殺されてもいいのだろうか?

 当時の日本の大義は間違いなくアジアの解放だった。アジアの諸国は当時、ヨーロッパ諸国やアメリカの植民地となり搾取の対象であった。有色人種で日本だけが欧米に立ち上がれるだけの力を持っていた。そして我々の先人たちは立ち上がったのである。もちろん、その過程で横柄な態度を取った人もいるだろう。しかし、鈴木敬司少将のような方がいたというのは我が国の誇らしい歴史である。私は「ロスト・コーズ」を語り続けていきたい。そう浜松で感じた。

つづく

<参考>ビルマゆかりの碑

 この碑はビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和15年わが国に亡命して、当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの地に立てられたものであります。太平洋戦争間彼の苛酷なビルマ戦場で、幾多春秋に富む若い身を祖国に捧げ散華された諸英霊は、当静岡県出身者のみでも2700余柱に及んでおります。今日のわが国の隆成が一途に祖国の安泰と平和をこい願いつつ散華された尊い英霊の犠牲とそのご加護の賜であることは、片時も忘れることができません。ここに同志相図り静岡県及び浜松市ならびに関係市町村当局のご協賛を得て、ビルマゆかりの碑を建設し、ビルマ方面で戦没された諸英霊をお慰めすると共に、オンサン将軍の史実を長くここに留め、ビルマとの友好を期する次第であります。なお碑面のビルマ語は、駐日ビルマ連邦大使ウチコーコー閣下の撰になり、「ジャパンバマーチチエーテミエバセー」と発音し、「日緬永遠の友好を!」の意味であります。
昭和49年5月12日
ビルマゆかりの碑建設委員会
会長 飯田禅二郎
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2009年3月10日 (火)

総合危機管理講座

 前後期24回にわたった総合危機管理講座の日程がすべて終了した。総合危機管理講座とは、元内閣安全保障室長であさま山荘事件でも活躍された佐々淳行先生が危機管理の専門家を育成するために開いた講座である。昨年、私は松下政経塾OBの日下部晃志さんの紹介で、ここでスタッフとして一年間働かせてもらった。一年間手伝わせてもらい、この講座に大変感銘を受け、今年は一受講生として参加し、一年間の講義を受けたのだった。

 我が国の「当たり前」の日常を守る。それには様々な視点が必要である。この講座では防衛、防犯、防災、防疫と4つの「防」を中心に勉強させてもらった。今後もさらに研鑽を積んで、私の志を実現するために奮闘していきたい。
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2009年3月 8日 (日)

満州路を行く 8 ~阿城~

 ハルビンから車で南東に40分、阿城という町がある。今は地平線まで続く広大な大地が広がっているが、かつてここを都とした王朝があった。阿城の昔の都市名は会寧。そう、阿城は女真族の王朝、金の首都だった町なのである。そんな阿城の町を散策した。

 金は1115年に完顔阿骨打によって建国された。猛安・謀克制という独特な軍事体制によって勢力を拡大。1120年には北宋と淵の盟(せんえんのめい)を結び、燕雲十六州を割譲する代わりに遼を挟撃し、満州と内モンゴル一体を完全に支配下においた。さらに1126年には北宋の背信行為に端を発した靖康の変で北宋を滅ぼし、中国の北半分を征服するまでの王朝になったのである。阿城はそんな金王朝の首都だったの町。しかし、かつての繁栄ぶりは見る影もなく今は一面の雪原が広がっていた。そんな「古都」を散策した。

 私がまず訪れたのは金上京博物館。ここには金王朝に関する様々な資料が展示されていた。当時の兵器、史料、出土品、集落の模型などが展示されていて、金王朝のことをたっぷり学ばせてもらった。入り口には完顔阿骨打の像が建っている。そこで記念撮影をしてから博物館を跡にした。さらにその先には、完顔阿骨打の陵墓もある。女真族とあって瀋陽のヌルハチやホンタイジと同様の造りの陵墓だった。果てしなく続く雪原。その中に佇んでいると騎馬民族が疾駆する様がリアルに想像できる。寒さで体は震えていたが、心だけは熱く燃えていた。そんな阿城の散策だった。

 壮大な満州の旅もそろそろ終わりが近づいてきた。私は阿城から再びタクシーに乗り、ハルビンに戻り、ハルビンから寝台列車に乗って大連まで帰ることにした。古来からの騎馬民族、満州族、そして我々の先人たちの夢の大地・満州。そんな満州を満喫した旅だった。

 そして、2009年元旦。私は寒風吹きすさぶ大連の港に一人佇んでいた。初日の出を見ようとしたためである。中国では旧正月が元旦のため、この日はただの普通の日にすぎない。そのため港に佇んでいるのは私一人であった。七時過ぎ、徐々に東の空が明るくなり、すでに日本で何万人もの人が拝んだであろう太陽が顔を出した。天気は快晴。日の光がまぶしいほどである。今年はいったいどんな一年になるのだろうか?私はまぶしいばかりの初日の出に一年の祈願をし、日出づる国への帰路へ着いた。

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2009年3月 7日 (土)

満州路を行く 7 ~ハルビン~

 長春から鉄道で3時間、ハルビン駅に到着した。1909年10月26日、我が国の初代内閣総理大臣伊藤博文公が朝鮮人テロリスト安重根に暗殺された、その場所である。日本人にとってまことに因縁深い場所からハルビンの散策は始まった。

 ハルビンの冬は寒い。外は-30℃の世界で、一時間置きに喫茶店に逃げ込まないと散策が続けられないくらいの寒さであった(笑)。そんなハルビンであるが、この時期ならではの楽しみが一つある。氷雪まつりだ。この時期になるとハルビンの中心を流れる松花江は完全に凍りつき、あたり一面雪と氷の世界となる。その雪と氷を使って町のあちこちに氷像や雪像が作られているのである。氷雪まつりはこの時期のハルビンの楽しみであり、世界中から多くの観光客を集める祭典となっている。

 そんなハルビンで私がまず足を運んだのは兆麟公園だった。ここは氷像が中心となっている。今年のテーマはディズニーである。オランダやスコットランドから集結した専門の技師が総力を結集して作った2000点を超える彫刻が展示されていた。展示されていたのはミッキーマウスやプーさん、アラジンやトイストーリーなどと言ったお馴染みの作品ばかり。男一人で歩き回っているのが寂しい限りではあるが、十分に堪能させてもらった(苦笑)。

 続いて訪れたのは太陽島公園。松花江の河岸からロープウェイに乗り、川を渡ると太陽島に行くことができる。この太陽島の中心にあるのが太陽島公園である。こちらは雪像が中心。ちょうど札幌の雪まつりのような具合で、アニメのキャラクターや芸術的な作品の数々が並んでいた。どちらの公園も技師たちが魂をこめて作った作品で、存分に楽しませてもらった。

 一通り散策したあと、ソフィスカヤ聖堂に行った。ハルビンは19世紀以来ロシアの影響が強い都市である。現在も多くのロシア人たちが暮らしている。そんな町の象徴でもあり、随一の観光名所がこのソフィスカヤ聖堂である。ロシア正教の教会で、たまねぎ型の屋根が特徴の欧風建築物であった。

 ロシアの影響が色濃く残る「東方のパリ」ハルビン。氷と雪の都を堪能した。

つづく
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2009年3月 1日 (日)

満州路を行く 6 ~長春~

 早朝に瀋陽を出発し、鉄道に4時間揺られ、10時過ぎに小雪舞う長春の駅に着いた。気温は瀋陽よりさらに下がり-16℃。もはや全身の感覚がおかしくなっている。首から下げていたデジタルカメラもあまりの寒さに動かなくなってしまうほどであった(駅前のショッピングセンターで中国製のカメラを買った。さすがに寒い土地だけあってこちらのカメラは最後まで大丈夫だった)。

 吉林省の省都長春。かつて満州国の首都も経験したこの都市の歴史は日本抜きでは語ることは出来ない。この町がすべて日本人の手によって設計されているからである。設計を担当したのは満鉄の初代総裁後藤新平とその設計担当の加藤与之吉であった。街づくりは道路から始まった。まず駅前から南に下る大通りをメインストリートとし、そこから左右に斜線の幹線を設けて円形広場とつないだのである。道幅は36メートルとし、長春大街(現在の人民大街)と名付けられた。道の両側にはアールヌーボー様式の建物がずらりと並び、栄えに栄えていたらしい。町の南には当時の官庁街、順天大街(現在の新民大街)も建設された。ここには当時の行政官舎がずらりと並んでいた。

 日本が来るまで長春はただの一地方都市に過ぎなかった。では、そんな長春がなぜ満州国の首都に選ばれたのだろうか。それには理由がある。当初、候補に挙げられていたのは瀋陽とハルビンであった。この満州の二大都市は人口でも、歴史から見ても、産業からしても首都にふさわしい都市であった。しかし、瀋陽は張学良が抗日活動をしていた土地で治安面で問題があった。一方のハルビンもロシアの影響力が強い都市でこちらも問題があった。そこで白羽の矢が立ったのが長春なのである。長春は二大都市の中間に位置し、満鉄も通っていることから交通の便が良い。それが故に首都「新京」に選ばれたのである。

 満州国建国以来、満州の人口は増えに増え、新京(長春)は栄えた。それとともに上下水道や緑地帯なども整備され、世界の先進都市になっていったのである。まさに長春の町の発展は日本とともにあった。

 私は早速、長春の町を歩き回ることにした。道路と円形広場の計画性はすぐに感じることができた。しかし、なぜか感動に浸ることができない。それもそのはず通りを一本入れば、貧民街が広がっていたからである。-16℃という中でも薄着で暖房器具もないような家に暮らしている人が大勢いたのである。ゾッとする光景だった。表通りの華やかさと裏通りの貧しさ。中国の格差社会を感じてしまった散策であった。

 長春の町の観光は何といっても、満州国皇帝に即位した溥儀が暮らしていた皇宮の跡である。現在では「偽満州国皇宮博物院」という「偽」の字がつけられている博物館になっている。寝室、客室、書斎、仏堂、アヘン吸引室等々、在位期間の生活ぶりがよくわかる施設だった。映画『ラストエンペラー』の撮影でも使われていて、まさに映画そのものの造りだった。

 博物院の隣には、ここにも江沢民が建てた反日資料館がある。とりあえず入館してみたものの、せっかくの旅行の楽しさを奪い取ってしまうには十分すぎる内容であった。瀋陽の資料館の比ではない。蝋人形やジオラマ、惨たらしい写真などが並び、如何に日本が残虐行為をしたかを宣伝しているだけの資料館だった。写真の出所も定かではないし、中国共産党政権の正当性を証明したいだけというのは冷静に考えれば明らかである。その側を修学旅行らしき小中学生の一団が通り過ぎていく。中国の反日教育が如何に凄まじいかがよくわかった資料館だった。日中友好は難しい。つくづく感じる。福田前総理ではないが、相手の嫌がる行為をしないでほしいものである(苦笑)。

 そんな長春を日が暮れる前に跡にし、ハルビンへ向かった。満州の旅はまだまだ続く。

つづく
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2009年2月19日 (木)

満州路を行く 5 〜瀋陽2〜

 瀋陽の散策はまだまだ続く。

 次に私は張作霖の邸宅に行った。馬賊の棟梁から一代で身を起こし、日本を出し抜いて瀋陽に独立政権を樹立した張作霖。その張作霖の官邸兼私邸である。故宮にも負けないくらいの豪華な近代建築は圧巻だった。特にローマ様式の三階建ての大青楼の豪華さは特別である。奉天軍閥の首領として権力の絶頂にいた張作霖。その暮らしぶりがよくわかる豪邸であった。しかし、その張作霖も思いも駆けない形で生涯を閉じることとなる。1928年6月4日、京奉線と満鉄線が交差する皇姑屯陸橋付近に何ものかによって爆弾が仕掛けられ、張作霖の乗っていた特別列車が、列車ごと吹き飛ばされる事件が起きるのである。この事件によって張作霖は死亡。満州におけるパワーバランスも急速に変わっていくのである。この事件は一般的には関東軍の河本大作大佐の犯行だとされている。関東軍の援助を受けていながら、張作霖は意に添った行動をせず、強大な軍事力を持つようになったからというのが一般的だ。しかし近年、その見解も見直されるようになった。コミンテルンによる犯行だという説が有力になってきたためである。ロシアの歴史家ドミトリー・ボルゴヌフ氏がソ連軍諜報局の暗殺計画の決定的な資料を見つけたからである。反ソ的な行動を取り続けていた張作霖。さらに鉄道使用料の未払もあることなどから、この説は一定の説得力を持っている。事実が解明されるまでこの事件のコメントは控えたいと思う。張作霖の死後、この建物は後を継いだ反日活動家の息子張学良の所有物となり、抗日運動の拠点となっていった。瀋陽はこうして新たな時代へと突入するのであった。その舞台となった建物を見学させてもらった。

 その後、満州事変勃発の地、柳条湖にも行った。ここには現在、江沢民の主導で建てられた反日の資料館がある。カレンダーを9月18日の日付で開いた形をしている石造りの建物が資料館だ。入館する前からだいたいの内容は想像できたが、想像以上に強烈な反日の資料館であった。確かに当時の関東軍がとった行動は暴走という意外にない。関東軍は日本政府の方針を全く無視し、出先で勝手なことをしてしまった。しかも、陸軍の中央でさえ知らなかったのだから質が悪い。しかし、当時の関東軍の行動をすべて「侵略」と決め付けてしまうのは些か筋違いである。南満州における権益は日露戦争後の講和条約で正当な権利として認められていた。これは当時の中国政府を含む国際社会全体が認めたもので、何の問題もないことである。そんななか、関東軍はソ連と対峙していたし、蒋介石や張学良が反日的な活動をしていて、日本人入植者の生命が常に危険に晒されていた。しかし、当時の幣原喜重郎外相の方針は徹底した国際協調外交であった。それは「軟弱外交」と揶揄されたほどで、日本人居留民の生命が危険に陥っても話し合いで解決しようとしたほどであった。そんな政府を見て関東軍の将校たちは「日本政府は頼りにならない」と思い、行動したのである。すべてを肯定するわけではないが、行動に至った背景を知ることも重要だ。しかも、満州という土地はもともと漢民族の土地ではない。関東軍が満州を制圧したまま居座り満州族を支配したのなら話は別だが、溥儀を迎えて満州国を作ったのである。欧米の植民地政策とは訳が違うということは一目瞭然であろう。日本人として我々はそういう歴史を知っておかなければならない。そんな思いに駆られた柳条湖であった。

 激動の歴史を歩んだ瀋陽。満州の薫りを残しつつも大きく様変わりした古都をたっぷりと散策し、次の目的地、長春へと向かった。

つづく
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